荘右衛門と云ふものがあつた。其妻奥平氏が一子曾七郎を生んだ。荘右衛門が尾張中納言|継友《つぐとも》に仕へて、芋生《いもふ》の竹腰志摩守の部下に属するに及んで、曾七郎は竹腰氏の家老中西曾兵衛の養子にせられた。中西氏は本氏《ほんし》秋元である。そこで中西曾七郎が元氏《げんし》、名は維寧、字《あざな》は文邦、淡淵と号すと云ふことになつた。淡淵が芋生にあつて徒に授けてゐた時、竹腰氏の家来井上|勝《しよう》の孤《みなしご》弥六が教を受けた。時に元文五年で、師が三十二歳、弟子《ていし》が十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮《なんぐう》氏と称し、名は岳《がく》、字は喬卿《けうけい》、号は大湫《たいしう》となつた。延享中に淡淵は年四十に垂《なんなん》として芋生から名古屋に遷つた。此時又一人の壮者《わかもの》が来て従学した。これは尾張国|平洲《ひらしま》村の豪士細井甚十郎の次男甚三郎であつた。甚三郎は偶《たま/\》大湫と生年を同じうしてゐて、当時二十に近かつた。遠祖が紀長谷雄《きのはせを》であつたと云ふので、紀氏、名は徳民、字は世馨《せいけい》、号は平洲とした。後に一種の性行を養ひ得て、所謂《いはゆる》「廟堂之器」となつたのが此人である。
寛延三年に淡淵が四十二歳を以て先づ江戸に入つた。その芝三島町に起した家塾が則ち叢桂社である。翌年は宝暦元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿して、生徒は皆平洲に帰した。明和四年に大湫が四十歳を以て江戸に入り、榑正町《くれまさちやう》に寓した。大湫は未だ居を卜せざる時、平洲と同居した。「平洲為之称有疾、謝来客、息講業十余日、無朝無暮、語言一室、若引緒抽繭、縷々不尽」であつた。明和八年に八町堀牛草橋の晴雪楼が落せられた。大湫の家塾である。
泉豊洲が晴雪楼に投じたのは、恐くは安永の初であらう。安永七年より以後、豊洲は転じて平洲に従遊し、平洲は女《ぢよ》を以てこれに妻《めあは》した。
叢桂社の学は徳行を以て先となした。淡淵は「其講経不拘漢宋、而別新古、従人所求、或用漢唐伝疏、或用宋明註解」平洲の如きも、「講説経義、不拘拘于字句、据古註疏為解、不好参考宋元明清諸家」と云ふのである。要するに、折衷に満足して考証に沈潜しない。学問を学問として研窮せずに、其応用に重きを置く。即ち尋常為政者の喜ぶ所となるべき学風である。
蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。窃《ひそか》に思ふに只蘭軒をして能く拘儒《くじゆ》たることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてもの賚《たまもの》ではなかつただらうか。
その十二
蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》、木村|文河《ぶんか》、植村士明、下条寿仙《げでうじゆせん》、春泰の兄弟、横山辰弥等があつた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の孫女《まごむすめ》は後に蘭軒の子柏軒に嫁し、柏軒の女《むすめ》が又※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の養孫《やうそん》矩之《くし》に嫁して、伊沢狩谷の二氏は姻戚の関係を重ねた。
木村文河、名は定良《さだよし》、字《あざな》は駿卿、通称は駿蔵、一に橿園《きやうゑん》と号した。身分は先手与力《さきてよりき》であつた。橘|千蔭《ちかげ》、村田|春海《はるみ》等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
植村士明、名は貞皎、号を知らない。士明は字《あざな》である。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。
下条寿仙、名は成玉《せいぎよく》、字は叔琢《しゆくたく》である。信濃国筑摩郡松本の城主松平丹波守|光行《みつゆき》の医官になつた。寿仙の弟春泰、名は世簡《せいかん》、字は季父《きふ》である。横山の事は未だ詳《つまびらか》にしない。
蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一|所《しよ》」と註してある。浅田|栗園《りつゑん》の皇朝医史には此人のために伝が立ててあるさうであるが、今其書が手元に無い。
武田叔安は天明中より武鑑寄合医師の部に載せて、「四百俵、愛宕下」と註してある。文化の末より法眼《はふげん》としてあつて、持高と住所とは旧に依つてゐる。武田氏は由緒ある家とおぼしく、家に後水尾天皇の宸翰二通、後小松天皇の宸翰一通を蔵してゐたさうである。
蘭軒が本草《ほんざう》の師は太田大洲、赤荻由儀であつたと云ふ。太田大洲、名は澄元、字は子通である。又崇広堂の号がある。享保六年に生れ、寛政七年十月十二日に七十五歳で歿した。按ずるに蘭軒は其古稀以後の弟子《ていし》であらう。
赤荻由儀はわたくしは其人を詳にしない。只富士川游さんの所蔵の蘭軒雑記に、「千屈菜《せんくつさい》、和名みそはぎ、六月|晦日御祓《みそかみそぎ》の頃より咲初《さきそむ》る心ならむと余《わが》考也、赤荻先生にも問しかば、先生さもあらむと答られき」と記してあるだけである。手元にある諸書を一わたり捜索して、最後に白井光太郎さんの日本博物学年表を通覧したが、此人の名は遂に見出すことが出来なかつた。年表には動植の両索引と書名索引とがあつて、人名索引が無い。事の序《ついで》に白井さんに、改板の期に至つて、人名索引を附せられむことを望む。わたくしは又赤荻由儀に就いて見る所があつたら、一報を煩したいと云ふことを白井さんに頼んで置いた。
蘭軒が師事した所の儒家医家は概《おほむ》ね此の如きに過ぎない。わたくしは蘭軒の師家より得た所のものには余り重きを置きたくない。蘭軒は恐くは主としてオオトヂダクトとして其学を成就したものではなからうか。
蘭軒は後に詩を善くし書を善くした。しかし其師承を詳にしない。只詩は菅茶山《くわんちやざん》に就いて正を乞うたことを知るのみである。蘭軒が始て詩筒を寄せたのは、推するに福山侯阿部|正倫《まさとも》が林述斎の言《こと》を聞いて、茶山に五人扶持を給した寛政四年より後の事であらう。
その十三
信階《のぶしな》は寛政六年十月二十八日に五十一歳で、備後国深津郡福山の城主阿部伊勢守正倫に召し抱へられて侍医となつた。菅茶山が見出された二年の後で、蘭軒が十八歳の時である。阿部家は宝永七年|閏《うるふ》八月十五日に、正倫の曾祖父備中守|正邦《まさくに》が下野国宇都宮より徙《うつ》されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩先主長生公、以宝永七年庚寅、自下毛移此」と書してあるのが是である。当主正倫は、父伊予守|正右《まさすけ》が明和六年七月十二日宿老の職にゐて卒したので、八月二十九日に其後を襲《つ》いだ。伊沢氏の召し抱へられる二十五年前の事である。
寛政七年には、十八年来、信階の女《ぢよ》幾勢《きせ》が仕へてゐる黒田家に又代替があつた。八月二十四日に筑前守|斉隆《なりたか》が卒して、十月六日に嫡子官兵衛|斉清《なりきよ》が襲封したのである。治之《はるゆき》夫人幸子が三十八歳、幾勢が二十五歳の時である。同じ十月の十二日に、蘭軒の本草の師太田大洲が七十五歳で歿した。時に蘭軒は十九歳であつた。
寛政九年は伊沢の家に嘉客を迎へた年であるらしい。それは頼山陽である。
世に伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた。恰も好し叔父《しゆくふ》杏坪《きやうへい》が当主|重晟《しげあきら》の嫡子|斉賢《なりかた》の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事が定まつてから、一旦|杉木小路《すぎのきこうぢ》の屋敷に帰つて、そこから立つたのである。
山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫|古梅《こばい》さんが枕屏風の下貼になつてゐたのを見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入西邸、(中略)須臾大人至堀子之邸舎」と書いてある。
浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐた。本邸は上邸、西邸とは中邸である。
山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎《かご》を下《くだ》つて霞が関へ往つた。山陽は空轎《からかご》に附いて永田馬場へ往つた。次で杏坪も上邸を退いて永田馬場へ来たのであらう。「堀子」とは年寄堀江典膳であらうか。
これより後山陽は何処にゐたか。山陽は自ら「遊江戸、住尾藤博士塾」と書してゐる。二洲の官舎は初め聖堂の構内《かまへうち》にあつて、後に壱岐坂に邸を賜はつたと云ふ。山陽の寓したのは此官舎であらう。二洲は山陽の父春水の友で、妻猪川氏を喪つた時、春水が妻飯岡氏静の妹|直《なほ》をして続絃《ぞくげん》せしめた。即ち二洲は山陽の従母夫《じゆうぼふ》である。
山陽は二洲の家にゐた間に、誰の家を訪問したか。世に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町|雉子橋《きじばし》の畔《ほとり》に訪うた。これは諸書の皆|載《の》する所である。
さて山陽は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の家に還つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此《かく》の如きに過ぎない。
然るに伊沢氏の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家にも寓したと云ふのである。
その十四
伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交はつた。就中《なかんづく》茶山は同じく阿部家の俸を食《は》む身の上であるので、其|交《まじはり》が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋《わらぢ》を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してゐたので、山陽は写字の手伝をした。さて暫くしてから、蘭軒は同窓の友なる狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に山陽を紹介して、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家に寓せしむることゝしたと云ふのである。
此説は世の伝ふる所と太《はなは》だ逕庭《けいてい》がある。世の伝ふる所は一見いかにも自然らしく、これを前後の事情に照すに、しつくりと※[#「月+(勿/口)」、7巻−29−下−5]合《ふんがふ》する。叔父杏坪と共に出て来た山陽が、聖堂で学ばうとしてゐたことは勿論である。其聖堂には、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふことになつた従母婿《じゆうぼせい》の二洲|尾藤良佐《びとうりやうさ》が住んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂《いはゆる》足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾《さしはさ》みやうも無い。
しかし口碑などと云ふものは、固《もと》より軽《かろがろ》しく信ずべきでは無いが、さればとて又|妄《みだり》に疑ふべきでも無い。若し通途《つうづ》の説を以て動すべからざるものとなして、直《たゞち》に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計《たいさうけい》ではなからうか。
伊沢氏でお曾能《その》さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父|榛軒《しんけん》も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉|幾勢《きせ》は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て
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