。五子信焉子兼之は通称城右衛門であつた。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]軒《りくちんけん》南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲に至り、元仲の後兼美、兼哲、兼通、兼雄を経て今の向井兼孝さんに至つたのださうである。
 蘭軒が元仲に贈つた詩の後に、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢。霽月光風存徳望。霜鬚仙眼見奇容。詩書講義人函丈。音韻闡微誰比縦。桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下《しも》に「先生|名文熈《なはぶんき》、字季績《あざなはきせき》、於音韻学尤精究、釈文雄《しやくぶんゆう》以来一人也」と註してある。
 竹田詩話に「余遊鎮、留僅一旬、所知唯四人、曰迂斎、東渓、南陵、石崎士斉、而南陵未及読其作」と云つてある。迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。
 蘭軒は南陵を以て文雄以来の一人だとしてゐる。文雄の事は細説を須《ま》たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然《くわつねん》、蓮社と号し、又了蓮寺が錦町にあつたので、尚絅堂《しやうけいだう》と号した。多く無相の名を以て行はれてゐる。

     その五十三

 此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事《なにごと》を做《な》したか、わたくしはこれを詳《つまびらか》にすることが出来ない。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−105−下−13]斎《かんさい》詩集を検するに、その交つた人々には徳見|※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《じんだう》があり、劉夢沢《りうむたく》があり、長川某がある。又|春風頼惟疆《しゆんぷうらいゐきやう》の来り訪ふに会した。清人《しんひと》にして蘭軒と遊んだものには、先づ伊沢信平さんの所蔵の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴《ちやうしうきん》がある。次に程赤城《ていせきじやう》があり、胡兆新《こてうしん》があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て伊沢良子刀自を訪うて検し得た文書の中に、陸秋実《りくしうじつ》といふものの蘭軒に次韻した詩があり、柏軒門の松田|道夫《だうふ》さんの話には江芸閣《こううんかく》も亦蘭軒と交つたさうである。
 徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂、名は昌《しやう》である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂来訪、手携都籃煮茶、賦謝」として七絶一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水《せいすゐ》が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる。
 劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。字君美。号夢沢。通称仁左衛門。家系出於彭城之劉。因氏彭城。世為訳吏。君独棄宦。下帷授徒。多従学者。文政三年庚辰十月廿九日病歿。享年四十三。友人藝国頼襄惜其有志而無年也。為識其墓如此。」蘭軒の集には、「劉君美春夜酔後過丸山花街、忽見一園中花盛開、遂攀樹折花、誤墜園中、有嫖子数人来叱、看之即熟人也、君美謝罪而去云、詩以調之」として七絶が二首ある。其一に「謾被誰何君莫怪、仙※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]旧自識劉郎」の句がある。
 長川某との応酬には、「賦蘭、寿長川翁」の五律がある。上《かみ》に見えた長川|正長《せいちやう》と同人か異人かを詳にしない。
 張秋琴には二月に面晤した。蘭軒がこれに与ふる書にかう云つてある。「今年二月詣館中也。訳司陳惟賢引僕見先生。僕層々喜可知。当日戯曲設場。観者群喧。故不得尽其辞。(中略。)夫説書之業。漢儒専於訓詁。宋儒長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必讐異於数本。考証於群籍。以僕寡見。且猶所閲。有山海経新校正。爾雅正義。明道板国語札記。大戴礼補註。古列女伝考証。呂覧墨子晏子春秋等校注。是皆不以臆次刪定一字。而讐異考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵瑕也。只怪未見古医書之有考証者。近年有楓橋周錫※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]所刻華氏中蔵経。全拠宋本。而其脱文処。由呉氏本補入。毎下一按字以別之。不敢混淆。雖未得考拠之備。蓋信古者也。其他似斯者。亦無見矣。謹問貴邦当時医家者流。於信古考証之学。其人其書。有何等者歟。」わたくしは張の奈何《いか》に答へたかを知らない。蘭軒を張に紹介した陳惟賢《ちんゐけん》も或は清客か。
 程霞生赤城、一|字《じ》は相塘《しやうたう》である。屡《しば/\》長崎に来去して国語を解し諺文《げんぶん》を識つてゐた。「こりずまに書くや此仮名文字まじり人は笑へど書くや此仮名」とか云ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
 胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人|秦星池《はたせいち》は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金《りくじよきん》と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。
 陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。
 江稼圃《こうかほ》、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。
 頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水|惟完《ゐくわん》を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪|惟柔《ゐじう》を江戸に見たのである。
 蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留《えんりう》したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。
 既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父|信階《のぶしな》が留守中に死んだことも亦疑を容れない。
 蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、法諡《はふし》して隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、怙恃《こじ》併せ喪つたのである。
 信階の肖像は阿部家の画師|村片相覧《むらかたあうみ》の作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広い※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]《ひたひ》の隆起した、峻厳な面貌であつたやうである。村片は古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]《こたう》と号して、狂歌狂句をも善くしたことが、伊沢分家所蔵の荏薇《じんび》贈答に見えてゐる。
 わたくしは此に上《かみ》に云つた八月十九日の出来事を記すこととする。分家伊沢の人々は下《しも》の如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒《しんけん》の乳母の夫が近在から参詣に来た。蘭軒の妻益は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して、いかに慰めても罷めなかつた。乳母はこれがために参詣を思ひ留まり、夫も昼|四時《よつどき》前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。

     その五十四

 此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に行はるべき祭が氏子の争論のために十二年間中絶してゐたので、此年の前景気は非常に盛であつた。然るに予定の日から雨が降り出して、祭が十九日に延びた。当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭の練物《ねりもの》を看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来|駢※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]《へんてん》群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間|許《ばかり》を踏崩したり。次第に崩れて、跡より来るものもいかにともする事ならず、いやが上に重りて落掛り水に溺る。」伊沢氏の乳母と夫とは、穉《をさな》い榛軒《しんけん》が泣いたために、此難を免れたのである。当時伊沢氏の子供は榛軒の棠助《たうすけ》が四歳、常三郎が三歳であつた。益は棠助を乳母に託して、自ら常三郎を養育してゐたのであらうか。
 蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時に当つて蘭軒を薦めて幕府の医官たらしめようとしたものがあつた。しかし蘭軒は阿部家を辞するに忍びぬと云つて応ぜなかつた。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻−109−下−10]斎《かんさい》詩集には客崎《かくき》詩稿の次に、森|枳園《きゑん》の手迹と覚しき文字で文化四年丁卯以後と朱書してある。此処に秋冬の詩が三首あつて、此より春の詩に移る。春の詩の中には戊辰の干支を記したものがある。わたくしは姑《しばら》く右の秋冬の詩を此年文化四年帰府後の作として視る。
 蘭軒は八九月の交に病んで、次で病の痊《い》ゆるに及んで、どこか田舎へ養生に往つてゐたかと思はれる。「山園雑興」の七律に、「病余只苦此涼秋」の句がある。
 季冬には蘭軒が全く本復してゐた。十二月十六日は立春で、友人の来たのを引き留めて酒を供した。「此日源士明、木駿卿、頼子善来話。昨来凝雪尚堆蹊。不惜故人踏作泥。※[#「土へん+盧」、第3水準1−15−68]酒交濃忘味薄。瓶梅春早見花斉。欲添炭火呼家婢。更※[#「不/見」、第3水準1−91−88]菜羮問野妻。品定吾徒詩格罷。也評痴態没昂低。」
 源士明《げんしめい》は植村氏、名は貞皎《ていかう》、通称は彦一、江戸の人である。駿卿《しゆんけい》は木村|定良《さだよし》、子善《しぜん》は頼遷《らいせん》で、並に前に出てゐる。
 蘭軒雑記に士明の名が見えてゐる。それは或|俚諺《りげん》の来歴を語つてゐるのである。「源士明いはく。俗に藪の中|香々《かう/\》といふ事あり。人熱田之事をひけどもさにあらず。傭中之佼々《ようちゆうのかう/\》といふ語の転音ならむ」と云ふのである。やぶのなかのこうのものと云ふ語は、古来随筆家|聚訟《しうしよう》の資となつてゐる。わたくしは今ことさらにこれを是非することを欲せない。しかし士明の説の如きは、要するに彼徂徠の南留倍志《なるべし》系に属する。此系は今猶連綿として絶えない。最近松村任三さんの語源類解の如きも、亦此|源委《げんゐ》の一線上に占位すべき著述である。
 頼家では此年春水が禄三十石を増されて百五十石取になつた。
 文化五年には先づ「春遊翌日贈狩谷卿雲」の二絶がある。想ふに同行翌日の応酬であらう。近郊の花を看て、帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。淡烟含雨未酣晴。日長踏遍千花海。晩向垂楊深巷行。」「解語新花奪酔魂。翠裳紅袖映芳尊。朝来総似春宵夢。贏得軽袗飜酒痕。」
 三月中に蘭軒は居を移した。伊沢分家の口碑には、此遷移の事が伝へられてゐない。集に載《の》する二律に「戊辰季春移居巷西」と題してあり、又「巷西※[#「くさかんむり/弗」、第3水準1−90−75]地忽移家」の句もある。新居は旧居の西に当つてゐたが、相|距《さ》ること遠からず、或は町名だに変らなかつた位の事であら
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