である。
詩。「大村駅舎逢鏑雲潭。松原連古駅。残日照汀洲。忽値同郷客。却添思国愁。図成真海嶽。趣合旧風流。何把東都酒。共談此遠遊。」
その五十
第四十五日は文化三年七月五日である。「五日卯時発す。三里|諫早《いさはや》。四里|矢上《やかみ》駅。一商家に宿す。海浜の駅にして蟹尤多し。家に入り席《むしろ》に上る。此辺より婦人老にいたるまで眉あり。此日暑甚し。晩雨あり。行程七里許。」
欄外に女子の眉を剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとて神辺《かんなべ》駅に宿す。四十|許《ばかり》の婦人眉あるを見んとて、四五人其宿にゆき窓に穴して見たるに、眉はなくして他国の人にことならず。後にきけば上方にゆくものはしばらく剃おとすと云。」蘭軒が菅茶山などの話を思ひ出でて枳園《きゑん》に命じて記せしめたものか。
蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日である。「六日卯時発。一里|日見《ひみ》峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名《なづ》く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたりても名刺を通じて迎《むかふる》もの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にいたり、午後寓舎に入る。此日暑甚し。行程三里|許《きよ》。」
長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。これを森崎に移したのが寛永十年である。寛文十一年に至つて、岩原郷《いははらがう》立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵《まがりぶち》は此立山庁邸に入つたのである。東役所址は今の諏訪公園の南麓県立女子師範学校の辺に当る。
長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある。白文は伊沢|信恬《のぶさだ》朱文は字澹父《あざなはたんふ》で、澹は水に従ふ字を用ゐてある。
詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営《こうえい》、清商館《しんしやうくわん》、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都頼年々舶商来。清商館。入門如到一殊郷。比屋通街居舶商。西土休誇文物美。逸書多在我東方。」鎮台は奉行である。逸書の七字は蘭軒の手に成つて殊に妙を覚える。
此より以下|客崎《かくき》詩稿中に就いて月日を明にすべきものを拾つて行くことゝする。
八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を説いて、少《わか》い友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の七律である。当時南畝が五十八歳、蘭軒が三十歳であつた。
十五日には蘭軒が「中秋思郷」の七絶を作つた。「各処歓歌風裏伝。雲収幽岫月皎然。一千里外家山遠。応照団欒内集筵。」
十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担人、去年此夜与両生同遊皇子村、駿卿有秋風一路稲花香句。村店浦笛夜清涼。窓竹翻風月満房。去歳今宵君記否。酔帰郊路稲花香。」駿卿《しゆんけい》は木村|定良《さだよし》で前にも見えてゐる。担人《たんじん》は未だ考へない。
九月の初に蘭軒は病のために酒を断つてゐたらしい。「九日。病余休酒怯秋風。佳節登高興政空。想得萱堂抱穉子。買花乱插小瓶中。」蘭軒の想像した家庭では、五十七歳の母|曾能《その》が二歳の常三郎を抱いて菊を活けてゐた。しかし曾能は或は既に病褥にあつたかも知れない。後二月にして客遊中の子を見ること能はずして歿したからである。
その五十一
蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた。「十三夜偶成。瓊浦山環海似盤。参差帆外月輪寒。半宵偏倚南軒柱。抛却許多郷思看。」郷思は容易に抛ち得て尽きなかつたらしい。
十三夜の詩の次に石崎鳳嶺に次韻した作がある。鳳嶺は千秋亭観月の詩を扇に題して、持つて来て見せた。月日は詳《つまびらか》にすることが出来ぬが、後の月よりは更に後の事であつただらう。「石崎士整与諸子同千秋亭賞月、題詩扇面、携来見示、即次韻。黄※[#「土へん+盧」、第3水準1−15−68]秋醸熟盈瓶。乗月諸賢叩野※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]。恰好清談親対朗。更教妙画酔通霊。曲渓泉響添幽趣。叢桂花開送遠馨。扇面写来良夜興。新詩標格自亭亭。」士整《しせい》の下に「名融思《なはゆうし》、号鳳嶺《ほうれいとがうす》、観画吏《くわんぐわのり》、善詩画《しぐわをよくす》」と註し、又観画吏の傍《かたはら》に唐画目利《たうゑめきゝ》と朱書してある。
鳳嶺の事は田能村竹田《たのむらちくでん》の竹田荘師友画録及竹田荘詩話に見えてゐる。画録に云く。「石融思。鎮之老画師也。予相識最旧。与渡辺鶴洲。為書画目利職。掌検閲清舶所齎古今書画。辨真贋定価直事。又鎮台有絵事。則必与焉。如中川侯之清俗紀聞、遠山侯之全象活眼此也。旁善西洋画。其子融済。亦善画。不墜家声矣。」詩話には士整が「士斉」に作つてある。そして「詩非其所長、故不録」と云つてある。竹田は鳳嶺の画を取つて其詩を取らなかつたものと見える。しかし猶これを待つに読書家を以てするを吝《をし》まなかつたことは、「贈瓊浦石崎君」の作に徴して知られる。「聞君踪跡不尋常。杜絶柴門読老荘。三尺枯桐焦有韻。千年古柏朽生香。松花院静落鋪径。※[#「題」の「頁」に代えて「鳥」、7巻−102−上−1]※[#「夬+鳥」、第4水準2−94−4]簾低声入堂。相思魚箋題句了。已看簷隙満蟾光。」
画録に載《の》する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本《もと》小原氏、京都より長崎に徙《うつ》つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし屠赤瑣々録《とせきさゝろく》には慶山の子は勘八、其|裔《すゑ》は書物目利役某で、鶴洲は只長照寺の慶山の墓を祭つてゐるのだと云つてある。前者は天保四年に成り、後者は早く文政二年に集録したものだと云ふから、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と号す、聖堂書記役なり」と云つてある。屠赤瑣々録の文も遽に排斥すべきでは無い。竹田は小原、大原と二様に書してゐるが、小原が正しいらしい。
これも九月中の事であらう。蘭軒は長川正長《ながかはせいちやう》の菊の詩に次韻した。正長、字《あざな》は補仁《ほじん》、観書の吏である。「六月拾遺菊於街上。植之園中。培養得功。遂至季秋。著花黄白両種。香満籬笆。」正長は七絶三首を作り、蘭軒はこれに和したのである。詩は略する。
十月三日に蘭軒は文筆峰《ぶんひつほう》に登つた。「十月三日登文筆峰、帰路過茂樹六松蓼原諸村」として七絶三首がある。今其一を録する。「登臨文筆最高巓。勝景来供岩壑前。鏡様蒼溟拳様島。卸帆※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]浙数州船。」茶山の集に「次韻伊沢澹父登文筆峰」として二絶が見えてゐる。「尋石聴禽到絶巓。忽驚大観落尊前。雲濤北擁三韓地。帆席西来百粤船。」「酔対空洋踞絶巓。風帆直欲到尊前。傍人相指還相問。底是呉船是越船。」
十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で、所謂《いはゆる》家附の女《むすめ》である。年は五十七歳であつた。法諡《はふし》を快楽院是参貞如《けらくゐんぜさんていによ》大姉と云ふ。先霊名録には快楽院が快楽室に作つてある。伊沢分家の古い法諡に、軒と云ひ室と云つて、ことさらに院字を避けたらしい形迹のあるのは、伊藤東涯の「本天子脱※[#「尸+徙」、第4水準2−8−18]之後、居于其院、故崩後仍称之、臣下貴者亦或称、今斗※[#「霄」の「雨」に代えて「竹かんむり」、第3水準1−89−66]之人、父母既歿、必称曰某院、尤不可也、蓋所謂窃礼之不中者也、有志者忍以此称其親也哉」と云つた如く俗を匡《たゞ》すに意があつたのではなからうか。
曾能は歴世略伝に拠るに、一子二女を生んだ。蘭軒と幾勢《きせ》、安佐《あさ》の二女とである。幾勢は蘭軒の姉であるが、安佐は其序次を詳にすることが出来ない。只安佐の生れたのが幾勢より後れてゐたことだけは明である。先霊名録に「知遊童女、隆升軒末女安佐、安永八年己亥十一月」として十日の条に載せてある。安永八年には幾勢は九歳、蘭軒は三歳であつた。末女とあるから幾勢より穉《をさな》かつたことは知られるが、蘭軒と孰《いづれ》か長孰か幼なるを知ることが出来ない。
曾能の臨終には、定て三十六歳の幾勢が黒田家に暇を請うて来り侍してゐたであらう。これに反して三十歳の蘭軒は三百里外にあつて、母の死を夢にだに知らずにゐた。
その五十二
文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《とくみじんだう》を接待した時の詩の註に見えてゐる。
此年の最初の出来事にして月日を明にすべきものは明倫堂の釈奠《さくてん》である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋《たかなべ》等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた。わたくしは※[#「くさかんむり/姦」、7巻−103−下−12]斎《かんさい》詩集に於て明倫堂の名を見て、萩野由之《はぎのよしゆき》さんに質《たゞ》し、始て諸国に同名の黌舎《くわうしや》があつたことを知つた。
長崎の明倫堂は素《もと》立山にあつたが、正徳元年中島|鋳銭座址《ちうせんざし》に移された。当時祭酒を向井元仲と云つて、此年に堂宇を重修《ちようしう》することになつてゐた。
蘭軒は恰も好し春の釈奠の日に会して、向井祭酒を見、又高松南陵の講書を聴いた。
蘭軒の釈奠の詩は二首あつて、丙寅の冬「聞雪」の作と、丁卯の春徳見※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂に訪はれた作との間に介《はさ》まつてゐる。そこでわたくしはこれを春の釈奠と定めた。釈奠は春二月と秋八月とに行ふもので、上丁《しやうてい》の日に於てする。萩野さんに質すに、朝廷の例が上丁であるゆゑ、武家はこれを避けて中丁とした。しかし往々上丁を以てしたこともあるさうである。わたくしは姑《しばら》く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。
さて暦を繰つて見れば、文化四年二月の丁日は五日、十五日、二十五日であつた。中丁は即ち二月十五日である。
蘭軒は二月十五日に明倫堂に上つて釈奠の儀に列した。「明倫堂釈菜席上贈祭酒向井元仲。瓦屋石階祀聖堂。百年経歴鎮斯郷。遺言総是乾坤則。明徳長懸日月光。匏竹迎神声粛調。粢盛在器気馨香。更忻世業君能継。今歳重修数仞墻。」向井元仲の下に「名富《なはふ》、字大賚《あざなはたいらい》」と註し、又第八の下に「今年有堂宇重修之挙、故云」と註してある。
向井元仲は霊蘭の裔《すゑ》である。霊蘭元升は肥前神崎郡酒村の人向井兼義の孫であつた。兼義の次男が由右衛門兼秀で、兼秀の次男が霊蘭であつた。霊蘭は薙髪《ちはつ》して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙《うつ》り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女があつた。長子仁焉子元端は一に雲軒と号し、医を以て朝に仕へ、益寿院と称した。長女春は早世した。二子義焉子元淵、名は兼時、小字《をさなな》は平二郎、後俳人落柿舎去来となつた。二女佐世は宇野氏に嫁した。三子礼焉子元成は一に魯町《ろてい》と号して儒となつた。通称は小源太であつた。四子智焉子利文、通称は七郎左衛門、出でて久米氏を嗣いだ。三女千代は清水氏に嫁した。田能村竹田の記に霊蘭の女|千子《せんこ》が俳諧を善くしたと云ふのは此人か
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