ほ川崎屋にあり。一商人平家蟹を携て余にかはんことをすゝむ。乃《すなはち》※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]子亮蟹譜《ゆしりやうかいふ》に載する蟹殻|如人面《じんめんのごと》きものありと称するものなり。午後風|収《をさまり》雨|霽《はる》。すなはち撫院の船に陪乗す。船大さ十四間幅五六間。柁工《たこう》三十余人。一堂に坐するごとし。少も動揺をおぼえず。撃鼓唱歌して船を出す。巌竜島を経て内裏の岸につき撫院舟より上《のぼつ》て公事あり。畢来《をはりきたつ》て船を出す。日久島をすぐ。石上に与次兵衛といふものの碑あり。豊臣太閤征韓のとき船此洲に膠《かう》して甚危かりし故船頭与次兵衛自殺せしとなり。北方は玄海灘渺々然として飛帆鳥のごとく後島《うしろのしま》はみな盃のごとし。壮雄限なし。日已申時。また大雨|遽《にはかに》来り海面暗々たり。しかれども風なし。遂三里豊前小倉の三門《みかど》に著船す。余船主に乞て唱歌を書せしむ。黄帝といふ曲なり。小倉伊賀屋平兵衛の家に宿す。主人一書巻を展覧せしむ。黄檗《わうばく》福巌鉄文《ふくがんてつぶん》といふ元禄年中の僧の書なり。遒勁《いうけい》運動看るに足れり。此地亦一湊会なれども遠く赤馬関に不及。此日雨によりて涼し。海上三里|許《きよ》。」
註に所謂|黄帝《くわうてい》の曲が載せてある。貨狄《くわてき》と云ふものが蜘蛛の木葉に乗るを見て舟を造り、黄帝に献じたと云ふ伝説を叙したものである。詞の初に三叉《みつまた》、駒形、待乳山の地名を挙げ、「見れば心もすみ田川流に浮ぶ一葉の舟の昔は」と云つて、舟の由来に入る。末に「此外に数曲ありといへり、撫院の云、文中に東都の地名あれば東都御舟歌ならんと、定て然らん」と云つてある。
詩。「赤馬渡海、海雨驟至。長州絶海是豊州。撃鼓揚帆進鷁頭。玄海北連千万里。宝珠東現一※[#「隻+隻」、7巻−94−上−5]洲。風迎驟雨瀟々至。潮浸低雲闇々流。縦得呉児能踏浪。駆来許怒水神不。」※[#「隻+隻」、7巻−94−上−7]洲《さうしう》は干珠満珠の二島である。
第三十九日。「廿八日卯時発す。豊筑の界及純素の城墟を経て海の入る処あり。くきの浦といふ。二里卅一丁黒崎駅。植松屋三郎兵衛の家に休す。二里卅四丁|木屋《こや》の瀬。三輪屋久兵衛の家に宿す。此日午後風ありて小雨降。大に涼し。行程六里許。」純素の城墟は未だ考へない。
第四十日。「廿九日卯時発す。能方《のうかた》川を渡り岩はな堤を経て小竹堤を行く。望ところ連山|垣墻《ゑんしやう》のごとく東南に突兀《とつこつ》たる山あり。香春山《かはらやま》といふ。(春はらと訓《よむ》又同国に原田《はるた》といふ所あり、原をはると訓す、ゆゑ未詳《いまだつまびらかならず》。)一山みな黄楊《つげ》のみといへり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「神道以祈祷為先、冥加以正直為本」の十四字を大書せり。亦一奇なり。未時雨大来。泥濘を衝て三里半内野駅。青山|元貞《げんてい》の家に宿。此日涼し。行程八里許。」
詩。「内野駅田家。茅茨半破竹扉斜。雨滴籬笆豌豆花。野犢随童過曲径。村※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]驚客去隣家。」
その四十八
第四十一日は文化三年七月|朔《ついたち》である。「七月|朔日《ついたち》四更に発す。冷水《ひやみづ》峠を越るに風雨甚し。轎中唯脚夫の※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]《つゑ》を石道に鳴すを聞のみ。夜明て雨やむ。顧望《こばうする》に木曾の碓冰《うすひ》にも劣らぬ山形なり。六里|山家《やまが》駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。駅中に石を刻して蛭子神《ひるこのかみ》を造りて街頭に立つるあり。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取り小礫川《せうれきせん》に傍《そう》て行く。右の方に巍然たるものは法満山《はふまんざん》なり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名|竈山《かまどやま》といふ。寺院廿五房ありともいへり。天正年間には高橋某城を築けり。細川幽斎の紀行に見ゆ。芝山の際《きは》の狭路をすぎて二里大宰府にいたる。染川をすぎて境内に入る。染川まことに小流なり。天正年間すらすでにしかり。況や今にいたりてをや。境内に入るときは石鳥居、石橋、二王門、別殿、東西法華堂、薬師堂、浮堂《うきだう》、中門、回廊、本社、神楽堂、鐘楼、文庫等及末社おほし。此祠は延喜五年八月十九日|安行僧都《あんぎやうそうづ》に勅定ありて造営あり。数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川|隆景《たかかげ》筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。後年黒田長政此国主たるによりて中門回廊諸堂末社の廃絶を継興す。(信恬《のぶさだ》按ずるに兵火のために炎失せしは天正八年に当れり。)飛梅社前の右にあり。博多|画瓢坊《ぐわへうばう》の説に、明応七年|兵燹《へいせん》にかかりて枯しを社僧祠官等歌よみて奉りたれば再び栄生せりといへり。其後天正の兵燹にも焚《やけ》しこと幽斎紀行に見ゆ。左に一株の松あり。みな柵を以て囲む。池は心の字の形なり。雁《がん》鴨《かも》※[#「さんずい+鷄」、第4水準2−94−45]※[#「勅+鳥」、7巻−95−下−7]《けいせき》群集し鯉鮒游泳して人の足声を聞て浮み出づ。島ありて雁の巣ありといふ。三橋を架す。社地は古の安楽寺の地なり。延寿王院(神宮寺といふ)に入りて菅公真蹟を拝観す。双竪幅《さうじゆふく》。「離家三四年。落涙百千行。万事皆如夢。得々仰彼蒼。」〔此詩は杜子美《としび》の詩にして、誤て文草に入れたる論林羅山文集に見えたり。此等は公の古人の詩をかかせ給へるを見て、後人しらずして編集せしなり。賈至《かし》の詩を山谷《さんこく》集に入れし類ならんか。〕毎幅二行字三四寸大にして遵勁瀟灑《いうけいせうしや》たる行書なり。又|小楷普門品《せうかいふもんぼん》毎行十七字にして字大《じのおほきさ》五分|許《ばかり》楷法厳正なり。日已未後にして寺を出で五里原田駅なり。筑肥界をすぎ二里田代駅。難波屋喜平次の家に宿す。夜已初更なり。駅吏|竹秉炬《ちくへいきよ》を持て迎ること里余。俗尤野陋とす。此日午後快晴。大に秋風あり。行程十二里|許《きよ》。」
竈山の条《くだり》に清原元輔の連歌と細川幽斎の九州道の記とが引いてある。元輔連歌。「春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧も烟とぞなる。」幽斎は此山の沿革を説いてゐる。初め山に竈門山宝重寺《さうもんざんはうぢゆうじ》と云ふ寺があつて、山伏が住んでゐた。そこへ高橋某が城を築いた。後島津氏が岩屋の城を陥れた時、高橋も城を棄てて去り、山伏が又帰り来つたと云ふのである。「立つづく雲を千里《ちさと》のけぶりにてにぎはふ民のかまど山かな。」
染川の条には歌が四首引いてある。古歌。「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ。」又「染川に宿かる波の早ければなき名立つとも今は恨みじ。」家隆。「山風のおろすもみぢの紅をまたいくしほか染川の浪。」藤孝。「老の波むかしにかへれ染川や色になるてふ心ばかりも。」幽斎の記にも「思ひしにはかはりたる小河のあさき流なり」と云ひ、長嘯子の記にも「水さへかれはてて昔のあとといふばかりなり」と云つてあるを引いて、其末に蘭軒は記した。「信恬按ずるに、此両記幽斎紀行は天正十五年勝俊は天正末つ方也。」
菅廟の条には蘭軒が幽斎の文を引いて炎上の年を考へてゐる。「幽斎九州紀行は天正十五年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及しまま見物のためまかりける。彼寺は七とせばかりさき炎上してかたばかりなる仮殿《かりとの》なりと書きたり。すなはち炎上は天正八年に当れり。」
飛梅の条にも亦幽斎の文が引いてある。「幽斎九州道の記、飛梅も古木は焼てきりけるに若ばえの生出て有を見て、鶯のはねをやとひて飛梅のかごにはいかでのらで来にけむ。」
詩。「太宰府菅廟。行々筑紫旧山河。更向菅公祠廟過。一樹飛梅遺愛古。数般享祭歴年多。官途事業兼編史。謫地風光入詠歌。天道是非無奈得。聖賢従昔易蹉※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]。」
その四十九
第四十二日は文化三年七月二日である。「二日五更発す。一里|轟《とゞろき》駅。一里半|中原《なかはる》駅。二里神崎駅。小淵清右衛門の家に休す。駅中櫛田大明神祠あり。頗大なり。一里|堺原《さかひはら》駅にいたる。無量寿山浄覚寺といへる一向宗の境内に高麗烏《かうらいがらす》あり。常の烏より小にして羽翼端半白し。声鶉に似たり。一に徒烏《いたづらがらす》と名づく。此辺往々ありといへり。形状全く喜鵲《きじやく》と覚。一里半佐賀城下。古河《こが》新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す。長さ一寸五分|許《きよ》横五六分。味《あぢはひ》烏賊魚《いか》に似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏の鵲《じやく》たること蘭軒の説の如くなるを知つた。
第四十三日。「三日卯時発す。田間を過るに西南に多羅嶽《たらがたけ》、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前の千振山《ちふりやま》等四面に崔嵬繚繞《さいくわいれうぜう》して雲間に秀突せり。二里牛津駅。二里小田駅なり。駅中道北に巨大の樟木《くすのき》あり。活木《くわつぼく》なり。就て馬頭観音を彫刻せり。半幹《はんかん》也。堂を構て梢葉《せうえふ》その上を蔽庇す。堂の大さ二間余にして観音の像中に満るの大さなり。樹の大なることしるべし。二里成瀬駅。(五十丁一里。)二里塚崎駅。一商家に休す。駅長の家の温泉に浴す。清潔にして味《あぢはひ》淡し。脚気、疝気を愈《いやす》といへり。三里(五十丁一里)嬉野《うれしの》駅。茶屋正兵衛に宿す。此駅毎戸茶商なり。温泉あり。此日秋暑尤甚し。行程九里許。」
詩。「嬉野。※[#「栩のつくり/廾」、第3水準1−90−29]輿何趨歩。駅程将晩時。山痩多見骨。松老尽蟠枝。芳茗連家売。温泉一洞奇。村人秉竹火。迎我立荒岐。」
第四十四日。「四日卯時発す。三の瀬村の※[#「土へん+侯」、第4水準2−5−1]《こう》に十|囲許《ゐきよの》樟木あり。中|空朽《くうきう》の処六七畳席を布《し》くべし。九州地方|大樟《たいしやう》尤多しといへども此《かくの》ごときは未見《いまだみず》。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里|薗木《そのき》駅(一に彼杵《そのき》と書)なり。駅に出んとする路甚勝景なり。図巻末に附。鶴屋又兵衛の家に休す。三里松原駅。海辺路を経て桜の馬場といふ処あり。桜樹三四丁の列樹なり。花時おもふべし。又松林平にして海を環る二里大村城下。荒物屋三郎兵衛の家に宿す。鏑木雲潭《かぶらきうんたん》(名祥胤、字三吉《あざなはさんきつ》、河西野《かせいや》の次子)大村侯の命によりて今春よりこゝに家居して此夜来訪す。歓晤|及暁《あかつきにおよび》てかへる。此日暑甚し。行程八里許。」
欄外に森|枳園《きゑん》の樟の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの大さ廿八人|囲《めぐり》を第一とす。次は廿一人囲、次は十八人囲、この類は極て多し。第一のものは今枯たりと云。」薗木駅の図も例の如く闕けてゐる。
鏑木雲潭、名字は本文自註に見えてゐる。「河西野の次子」と云つてある。
河西野は市河寛斎で、其長子が米庵《べいあん》三|亥《がい》、次子が雲潭祥胤である。出でて鏑木梅渓の養子となつた。梅渓、名は世胤《せいいん》、字は君冑《くんちう》である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介|純昌《すみよし》
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