親族の名は今一々注せない。
此年徳十七、母柏四十一、姉長(津山碧山妻)二十二、良二十、弟季男一つ(以上福山)、磐二十七、母春五十一、弟信平(宗家養嗣子)十五、姉国(狩谷矩之妻)三十二、妹安廿四であつた。
その三百六十八
わたくしは蘭軒歿後の事を叙して養孫棠軒の歿した明治乙亥の年に至つた。所謂伊沢分家は今の主人《あるじ》徳《めぐむ》さんの世となつたのである。以下今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまでの家族の婚嫁生歿を列記して以て此稿を畢《をは》らうとおもふ。
明治九年三月七日、徳の幼弟季男が生れて二歳にして夭した。
十一年徳が東京に入つた。時に年二十。
十二年徳が母柏を東京に迎へた。
十三年四月四日徳の姉|良《よし》が所謂又分家の磐《いはほ》に嫁した。磐三十二、良二十五の時である。
十四年九月三十日磐の長子|信一《のぶかず》が生れた。
十七年十二月二十日磐の長女|曾能《その》が生れた。磐が陸軍士官学校御用掛となつて仏語を士官学生に授くることとなつたのは此年である。時に磐年三十六。わたくしは前に磐が電信術を修めたことを記した。しかし終にこれを業とするには至らなかつたらしい。既にして磐は力を仏語を学習することに専《もつぱら》にした。上《かみ》に引いた枳園乙亥の書中、「御分家磐様にも日々の様に御出、洋学勉強之事感心仕候、近々何れへ歟任官相成可申なれど、何分数齟齬いたし、未だ間暇に御坐候」の一節は、磐が干禄《かんろく》の端緒を窺ふに足るものである。
二十年徳が羽野《はの》氏かねを娶《めと》つた。磐の第二子|善芳《ぜんはう》が十月二十八日に生れて三十日に夭した。
二十一年磐が下総国佐倉に徙《うつ》つた。東京今川小路の家より佐倉新町芝本久兵衛方に移つたのである。是は佐倉にある陸軍将校に仏語を授けむがためであつた。時に年四十。
二十二年徳の長女たかよが生れた。磐の第二女かつが十月に生れて十二月十三日に夭した。
二十三年八月磐が佐倉の寓を撤して赤羽に舎《やど》つた。当時狩谷矩之が赤羽にゐて東道主人をなしたのである。在桜《ざいあう》日記、在羽《ざいう》日記が良子刀自の許にある。「桜」はさくら、「羽」はあかばねである。時に磐四十二、矩之四十八、国四十七。信平はボストンに遊学してゐた。年三十。
二十八年徳の長子|精《せい》が三月二十二日に生れ、二十六日に夭した。
三十年徳の第二女ちよが九月三十日に巣鴨の監獄役宅に生れた。徳は監獄の吏となつてゐたのである。磐の三女ふみが一月二十九日に、第二子|信治《のぶはる》が十月三十日に生れた。
三十三年二月四日磐の第三子|玄隆《げんりう》が生れて夭した。尋《つい》で五月十一日に長子信一が二十歳にして世を早うした。「灯に独り書を読む寒さ哉。空阿《くうあ》。」空阿は磐である。
三十五年二月二十二日徳の第二子|信匡《のぶたゞ》が生れた。磐の母春が十一月二十四日に七十八歳にして歿した。「折もよし母のみとりを冬籠。磐五十四歳。」此年六月十九日宗家を継いだ信平が宮内省医局御用掛を拝した。
三十八年十一月二十四日磐が五十七歳にして歿した。
四十年二月二十五日徳の第三子|信道《のぶみち》が生れた。
四十一年八月三十日徳の妻かねが四十一歳にして牛込区富久町の家に歿した。
四十三年八月二十三日徳の第三子信道が四歳にして夭した。
大正四年七月十三日信治の叔母《しゆくぼ》、狩谷矩之の未亡人国が七十二歳にして歿した。是より先三十三年一月五日に矩之は歿したのである。
五年信治の叔母安が六十五歳にして歿した。安は下野国の茶商須藤辨吉の妻であつた。
此間明治十年に池田氏で京水の三男|生田玄俊《いくたげんしゆん》、小字《せうじ》桓三郎が摂津国伊丹に歿し、十三年に小島氏で春澳瞻淇《しゆんいくせんき》が歿し、十四年に池田氏で初代全安が歿し、十八年に森氏で枳園が歿し、又石川氏で貞白が歿し、三十一年に小島氏で春沂《しゆんき》未亡人が歿し、三十三年に狩谷氏で既記の如く矩之が歿した。
今茲《こんじ》大正六年に東大久保にある伊沢分家では徳五十九、母柏改曾能八十三、姉長(在福山津山碧山未亡人)六十四、子信匡十六、女《ぢよ》たかよ二十九、ちよ二十一、赤坂区氷川町清水氏寓伊沢又分家では信治二十一、母良六十二、姉その(清水夏雲妻)三十四、ふみ二十一、麻布鳥居坂町の宗家を継いだ叔父信平五十七である。以上が蘭軒末葉の現存者である。
その三百六十九
わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を叙して其子孫に及び、最後に今茲《こんじ》丁巳に現存せる後裔を数へた。わたくしは前《さき》に蘭軒を叙し畢《をは》つた時、これに論賛を附せなかつた如くに、今叙述全く終つた後も、復総評のために辞《ことば》を費さぬであらう。是はわたくしの自ら擇んだ所の伝記の体例が、然ることを期せずして自ら然らしむるのである。
わたくしは筆を行《や》るに当つて事実を伝ふることを専《もつぱら》にし、努《つとめ》て叙事の想像に渉《わた》ることを避けた。客観の上に立脚することを欲して、復主観を縦《ほしい》まゝにすることを欲せなかつた。その或は体例に背《そむ》きたるが如き迹あるものは、事実に欠陥あるが故に想像を藉りて補填し、客観の及ばざる所あるが故に主観を倩《やと》つて充足したに過ぎない。若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言《こと》讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。
蘭軒は何者であつたか。榛軒柏軒|将《はた》何者であつたか。是は各人がわたくしの伝ふる所の事実の上に、随意に建設することを得べき空中の楼閣である。善悪智愚|醇※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2−90−40]《じゆんり》功過、あらゆる美刺褒貶《びしはうへん》は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。
わたくしは果して能く此の如き余地遊隙《よちいうげき》を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強《し》ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。
史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須《ま》つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。
わたくしは上《かみ》に体例と云つた。しかし是は僭越の語である。体例を創するは凡庸人の力の及ぶ所では無い。わたくしが体例と云つたのは、自家の出発点を明にせむがために、姑《しばら》く妄《みだり》に命名した所に過ぎない。わたくしは古今幾多の伝記を読んで慊《あきた》らざるものがあつた故に、竊《ひそか》に発起する所があつて、自ら揣《はか》らずしてこれに著手した。是はわたくしの試験である。
わたくしは此試験を行ふに当つて、前《さき》に渋江抽斎より姶め、今又次ぐに伊沢蘭軒を以てした。抽斎はわたくしの偶《たま/\》邂逅した人物である。此人物は学界の等閑視する所でありながら、わたくしに感動を与ふることが頗《すこぶる》大であつた。蘭軒は抽斎の師である。抽斎よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討《たづ》ねたのである。わたくしは学界の等閑視する所の人物を以て、幾多価値の判断に侵蝕せられざる好き対象となした。わたくしは自家の感動を受くること大なる人物を以て、著作上の耐忍を培《つちか》ふに宜《よろ》しき好き資料となした。
以上はわたくしが此の如き著作を敢てした理由の一面である。
その三百七十
わたくしは渋江抽斎、伊沢蘭軒の二人を伝して、極力客観上に立脚せむことを欲した。是がわたくしの敢て試みた叙法の一面である。
わたくしの叙法には猶一の稍人に殊なるものがあるとおもふ。是は何の誇尚《くわしやう》すべき事でもない。否、全く無用の労であつたかも知れない。しかしわたくしは抽斎を伝ふるに当つて始て此に著力し、蘭軒を伝ふるに至つてわたくしの筆は此方面に向つて前に倍する発展を遂げた。
一人の事蹟を叙して其死に至つて足れりとせず、其人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である。
前人の伝記若くは墓誌は子を説き孫を説くを例としてゐる。しかしそれは名字存没等を附記するに過ぎない。わたくしはこれに反して前代の父祖の事蹟に、早く既に其子孫の事蹟の織り交ぜられてゐるのを見、其糸を断つことをなさずして、組織《そしよく》の全体を保存せむと欲し、叙事を継続して同世の状態に及ぶのである。
わたくしは此叙法が人に殊なつてゐると云つた。しかし此叙法と近似したるものは絶無では無い。昔|魏収《ぎしう》は魏書を修むるに当つて、多く列伝中人物の末裔を載せ、後に趙翼《てうよく》の難ずる所となつた。しかし収は曲筆して同世の故旧に私《わたくし》したのである。一種陋劣なる目的を有してゐたのである。わたくしの無利害の述作とは違ふ。近ごろ今関天彭《いませきてんぱう》さんの先儒墓田録は物徂徠の裔を探り市野迷庵の胤を討《たづ》ねて、窮め得らるべき限を窮めてゐる。惟《たゞ》今関氏の文は短く、わたくしの文は長きを異なりとする。
是は文の体例の然らしむる所である。彼は地誌に類する文を以て墳墓を記し、此は人の生涯を叙する伝記をなしてゐるからである。
そして此にわたくしの自ら省みて認めざることを得ざる失錯が胚胎してゐる。即ち異例の長文が人を倦ましめたことである。
わたくしの伝記が客観に立脚したと、系族を沿討《えんたう》したとの二方面は、必ずしも其成功不成功を問はず、又必ずしも其有用無用を問はない。わたくしの文が長きがために人の厭悪《えんを》を招いたことは、争ふべからざる事実である。そして此事実はわたくしをして自家の失錯を承認せしむるに余あるものである。
人はわたくしの文の長きに倦んだ。しかし是は人の蘭軒伝を厭悪した唯一の理由では無い。蘭軒伝は初未だ篇を累《かさ》ねざるに当つて、早く既に人の嘲罵に遭つた。無名の書牘《しよどく》はわたくしを詰責して已まなかつたのである。
書牘はわたくしの常識なきを責めた。その常識なしとするには二因がある。無用の文を作るとなすものが其一、新聞紙に載すべからざるものを載すとなすものが其二である。此二つのものは実は程度の差があるに過ぎない。新聞紙のために無用なりとすると、絶待に無用なりとするとの差である。
わたくしは今自家の文の有用無用を論ずることを忌避する。わたくしは敢て嘲《あざけり》を解かうとはしない。しかし此書牘を作つた人々の心理状態はわたくしの一顧の値ありとなす所のものである。
その三百七十一
大抵新聞紙を読むには、読んで首《はじめ》より尾《をはり》に至るものでは無い。一二面を読んで三面を読まぬ人がある。三面を読んで一二面を読まぬ人がある。新作小説を読むものは講談を読まない。講談を読むものは新作小説を読まない。読まざる所のものは其人の無用とする所である。しかし其人は己に無用なるものが或は人に有用なるものたるべきを容認することを吝《をし》まない。此故に縦令《たとひ》おしろいの広告が全紙面を填《うづ》むとも、粉白《ふんはく》を傅《つ》くるに意なきものがこれを咎めようとはせぬのである。
事情|此《かく》の如くなれば、人の蘭軒伝を無用とするは、果して啻《たゞ》に自己のこれを無用とするのみではなく、これを有用とするものの或は世上に有るべきをだに想像することが出来ぬが故であらうか。
彼蘭軒伝を無用とするものの書牘《しよどく》を見るに、問題は全く別所に存するやうである。書牘は皆|詬※[#「此/言」、第4水準2−88−57]毒罵《こうしどくば》の語をなしてゐる。是は此篇を藐視《ばくし》する消極の
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