づき》也。觜崎より人車に而暮過三日月駅石川吉兵衛へ著。」亀児とは誰か。伴六の女久が長野氏に嫁して生んだ四子は、義雄、亀次郎、悦三郎、信吉である。亀次郎は今参謀本部陸地測量部技師である。亀児は此人であらう。
「十七日。晴。朝飯より出立。人車に而|平福《ひらふく》迄、当駅より小原《おはら》迄、夫より坂根《さかね》迄人車行。此日|駒帰《こまがへり》迄|大難坂《だいなんばん》也。夫より知津《ちづ》駅迄下り坂。当駅桝屋善十郎へ著。」
「十八日。晴。朝飯より出立。用《よう》が瀬《せ》迄小坂五六あり。当駅より人車に而|布袋《ほてい》村迄、夫より歩行、午後一時頃|味野《あぢの》村へ著。」
「十九日。雨。信慶実家森本善次郎へ被招行飲《まねかれゆきのむ》。」信慶は田中悌庵の養子である。此より日々招宴遊宴等がある。
「廿七日。晴。朝微雨。夕陰《ゆふべくもる》。とめ女召連、天明味野出立。上之茶屋《かみのちやや》迄同人|駕行《かごにてゆく》。当所迄信慶(中略)送来。夫より人車三乗、用が瀬より駕一挺、知津に而午支度。夫より歩行。野原駅松見屋某へ著。甚《はなはだ》※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]《そ》。」とめ女は田中悌庵の第七女で今の木下大尉|通敏《みちとし》さんの母である。
「廿八日。夜来雨。午前九時頃出立。風雨。関本駅とめ乗輿《じようよ》。水島善四郎止宿。」
「廿九日。雨。午後より漸晴。早昼支度に而出立。とめ駕行。楢村《ならむら》より歩行。夕七つ時津山京町大笹屋に著。大家也。」
「三十日。晴。朝飯より人車三乗に而出立。亀の甲より歩行。又|弓削《ゆげ》より人車。福渡《ふくわたり》より駕一挺。夕七時前|間《あひ》の宿《しゆく》久保に而藤原沢次郎へ著。」
「三十一日。晴。朝飯より駕一挺|為舁《かゝせ》出立。高田より歩行。足守《あしもり》より中原迄人車。又岡田より人車に而夕八半時頃|矢掛《やかけ》駅小西屋善三郎へ著。」
「六月一日。晴。午前十時頃出立。駕一挺|高屋《たかや》迄。同所より人車三乗。暮時帰宅。」

     その三百六十五

 棠軒は明治乙亥六月一日に鳥取から吉津村の家に帰つた。
 日録は此より下《しも》十一月九日に至つて絶えてゐる。其間記すべきものは棠軒の子三郎の死があるのみである。「四日。(十月。)晴。昨夜より三児不快不出来に付、安石同道水呑辺釣行約之処止。午後三時遂に死去。即夜十時出葬。」「九日。晴。純法童子初七日逮夜之処、挙家痢疾に付招客略す。」純法童子は三郎の法諡《はふし》である。庚午八月二十五日の生であつたから、六歳にして歿したのである。文中「挙家痢疾」の四字は注目に値する。按ずるに当時|痢《り》が備後地方に行はれて、棠軒の家族は皆これに感染し、三郎が独り先づ殪《たふ》れたのではなからうか。
 棠軒が日録の筆を絶つた次の日、乙亥十一月十日に東京にある森枳園が書を棠軒に与へた。下にこれを節録する。「昨年来蘭軒医談遺板に付て補刊仕《ほかんつかまつり》、前の板下書候梶原平兵衛も既に歿後、不得已《やむをえず》拙筆にて補板仕候。(中略。)外に以呂波字源考一冊、詩史顰《ししひん》一冊、共に上木仕候。(中略。)市野|光彦《くわうげん》の家、跡方もなく断絶の様子。町人の学者はわづか三右衛門といへる川柳点《せんりうてん》も、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎翁は誰も知れど、迷庵は誰も知らず、因て之を刻し世に公にせば、少年、抽斎と同じく升堂《しようだう》したる報恩の一端にも可相成乎と、拙筆を以て刊行仕候。(中略。)巻首の四大字は東久世通禧《ひがしくぜみちよし》公、次は養素軒柳原大納言|前光《さきみつ》公、愛古堂磐渓、秋月公、大給亀崖《おぎふきがい》公(即松平|縫殿頭《ぬひのかみ》の事也)、跋は片桐玄理と申せし家塾に居りし御存之者《ごぞんじのもの》、今文部の督学寮に出仕いたし居申候。僕も壬申以来文部へ出仕、間もなく被免《めんぜられ》、医学校へ出、編書課に在、亦免官、朝野新聞に入、成島柳北と相交《あひまじはり》、夫より工学寮の本朝学課長となり、十月来又々被免、此節は閑無事《かんぶじ》、書肆の頼に付、真片仮名《しんかたかな》の雑書編成仕居候。(中略。)狩谷此節上野広小路へ御引越、是亦平安也。(中略。)喜多村安正類中を発す。関藤藤陰も亦発す。塩田|良三《りやうさん》益盛なる勢、この驥尾に附て矢島玄碩、井口栄春の類《たぐひ》も官員様大出来也。阿部|正学《まさたか》公も御出府之処、其節|正桓《まさたけ》公に随従して、日光へ参詣いたし候故、遂に不得相見、残念至極に奉存候。(中略。)出府にても何も別段之事も無之、先旧習は追々脱し候様には候へども、とかく日本と唐《から》好きにて、中々|不相易《あひかはらず》一寸も引けは取不申候。」(下略。)
 枳園は既に蘭軒医談を校刻して、又自著以呂波字源考、市野迷庵撰詩史顰を校刻した。蘭軒医談の筆工は梶原平兵衛で、其補筆は枳園の手に成つた。以呂波字源考がわたくしの未見の書なることは上《かみ》に云つた如くである。詩史顰も亦未だ読まぬが、渋江氏は曾てこれを蔵してゐたと云ふ。其序跋の事は本文に詳《つまびらか》である。
「市野光彦の家、跡方もなく断絶の様子。」迷庵|光彦《くわうげん》の子は光寿《くわうじゆ》で天保十一年に歿し、光寿の子|光徳《くわうとく》は父に先《さきだ》つて天保三年に歿し、光徳の子源三郎、後の称寅吉は当時亀島町に住してゐた。所謂断絶は書香《しよかう》の絶えた事を謂ふものと看るべきである。
 この書牘《しよどく》には猶注すべき事がある。

     その三百六十六

 明治乙亥十一月十日に森枳園が棠軒に与へた書は、既に注する所を除いて、猶枳園の壬申以後の内外生活を後に伝ふるものとして尊重しなくてはならない。内生活は末の「日本と唐好き」の一節に由つて忖度《そんたく》せられる。外生活は早く寿蔵碑に、「五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕、爾後或入医学校為編書、或入工学寮為講辯」の句があるが、これを此書の「壬申以来文部へ出仕」云々《しか/″\》の一節に較ぶれば、広略日を同じうして語るべからざるものがある。わたくし共は此書を見て、枳園が己卯に大蔵省に仕ふるに先《さきだ》つて、文部省出仕、医学校編修、朝野新聞記者、工学寮課長を順次に経歴したことを知つた。是は未だ嘗て公にせられなかつた新事実である。
 次に此書中より見出されたのは、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の養孫矩之が本所横川より上野広小路に徙《うつ》つた時期である。わたくしは上《かみ》に此移居が明治五六年の交《かう》であつたと云ふ一説を挙げた。枳園の「此節」は三年前若くは二年前を謂つたものではなささうである。矩之は或は乙亥に入つてより後に徙つたのではなからうか。曾能子刀自は此広小路の家を記憶してゐる。大抵今杉山勧工場のある辺の裏通にあつて、土蔵造の三階であつたと云ふ。
 わたくしは此に一の疑問を提起する。それは狩谷|従之《じゆうし》の事である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎望之の後は其子懐之、懐之の養子矩之、矩之の子三|市《いち》で、三市さんは現に小石川区宮下町に住んでゐる。然るに安政中より維新に至るまでの間に、狩谷従之と云ふものがあつて、文雅人名録の類に載せられてゐる。従之は字《あざな》を善卿《ぜんけい》と云ひ、通称を三右衛門と云ひ、融々《ゆう/\》又|周《しう》二と号した。家は神田明神前にあつた。人名録の肩には「画」と記してある。その名に「之」字を用ひ、字に「卿」字を用ゐ、「三右衛門」とさへ称するを見れば、人をして望之の族たることを想はしめる。望之の家は三右衛門望之、三平懐之、三右衛門矩之、三市である。従之の氏名字号通称は相似たることも亦甚だしいではないか。
 試に其時代の同異を推すに、三右衛門従之は三平懐之が歿し、三右衛門矩之が嗣《つ》いだ頃から世に聞え始めた。しかし矩之は当時十四五歳の少年であつたから、従之は必ずこれより長じてゐたであらう。又矩之は本所の津軽邸内に蟄してゐたのに、従之は昔望之の住んだ湯島を距《さ》ること遠からぬ神田明神前に門戸を張つて画師をしてゐたのである。語を換へて言へば、安政以後には二人の狩谷三右衛門が並存してゐて、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の嫡孫《てきそん》に係るものは隠れて世に知られず、却て彼三右衛門従之が名を藝苑に列してゐた。
 わたくしは曩《さき》に従之の名を挙げて三市さんに問うた。しかし三市さんは夢にだに知らなかつたと云ふ。父と同世同氏同称の人があつたことは、三市さんの家に於ては曾《かつ》て話題にだに上らなかつたと見える。
 世上に若し従之の何者なるを知つた人があるならば、どうぞ事の真相を発表してわたくしの疑を釈《と》いてもらひたい。

     その三百六十七

 森枳園乙亥十一月十日の書には、猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風《るゐちゆうふう》を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真《しん》と云ひ、渋江|優善《やすよし》、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉《か》り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。
 書中には又阿部|正学《まさたか》の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記に「直吉」と書してゐる。是は維新後の称である。素《もと》福山侯の分家で、正学は前《さき》に棠軒を率《ゐ》て駿府加番に赴いた隼人正純《はいとまさずみ》の継嗣である。枳園は此人の入京した時、偶《たま/\》阿部宗家の正桓《まさたけ》に扈随して日光に往つてゐたので、相見るに及ばなかつた。以上は枳園|尺牘《せきどく》の註脚である。
 上《かみ》に云つた如く、枳園の此書を裁した十一日は、棠軒の筆を日録に絶つた十日の翌日である。棠軒は何故に筆を絶つたか。
 按ずるに棠軒は病のために日録を罷めたのである。此事実は下《しも》に引く清川玄道の書牘《しよどく》に見えてゐる。十一月四日には幼児三郎が死んだ。九日には日記に「挙家痢疾」の語がある。そして棠軒は実に此月十六日を以て歿してゐる。日録を罷めた後僅に六日である。
 わたくしは此に於て想像する。三郎は痢を病んで死んだ。次で全家が痢を病んだ。棠軒も亦これに感染して死んだ。わたくしは此の如くに想像する。
 棠軒は乙亥の歳十一月十六日に四十二歳にして歿した。「病死御届。第二大区深津郡小二十一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒。右之者十一月十七日病死仕候。此段御届奉申上候、以上。明治八年十一月。右長男、伊沢徳。小田県参事益田包義殿。」喪は次日に発せられたのである。
 尋《つい》で棠軒未亡人|柏《かえ》は徳《めぐむ》の家督相続を県庁に稟請した。「家督相続御願。第二大区深津郡小廿一区吉津村三百二十七番地、士族、伊沢棠軒亡長男、伊沢徳。右者先般御届仕居候通、棠軒病死仕候に付、跡相続之儀者書面之者に被仰付被成下度、此段奉願候、以上。明治八年十一月。伊沢徳母、かよ。小田県参事益田包義殿。」徳は時に十七歳であつた。
 棠軒生前に枳園の寄せた書は、果して棠軒の閲読を経たかどうか不詳である。棠軒歿後に清川玄道の徳に与へた書は、猶徳さんの蔵儲中にある。「尊大君事十一月十日夜半より御発病(中略)、同月十七日遂に御遠行之趣(中略)、御愁傷之程奉恐察候。三郎君にも十月四日痢症にて御遠行之由、重々の御愁傷紙上|御悔難尽儀《おんくやみつきがたきぎ》に被存候。母堂君久々御不快之趣(中略)、折角|御保摂奉祷候《ごはうせついのりたてまつりそろ》。(中略。)手前方にても、八月十七日長女とゑ病死、(中略)、虚労《きよらう》症にて遂に下泉殆当惑罷在候。(中略。)御従弟、横浜住居之おとし殿及旧門下之仁にも(中略)御為知《おんしらせ》申上候事に御坐候。(中略。)養母始宮崎姉共も宜敷申上候様申出候。(下略。)十二月五日認。清川玄道。伊沢徳様。」伊沢清川両家の
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