はかうである。
「清和之時候と申内、稍薄暑も催候処、貴宅御揃愈御多祥被成御坐候条、拝賀之至。僕老耄相増候得共、先々頑健罷在候。乍憚御省慮可被下候。扨当春阿部正貫出京之節は、御懇切御文通被下、殊に無存掛《ぞんじかけなく》御肴料二|方金《はうきん》御恵贈|被遣《つかはされ》、辱拝受、乍去御過厚之事奉恐入候。先以御近況過日阿部より承候。爰元《こゝもと》之光景は此節同人より御承知と奉存候。同人爰元出立之節は、必御礼一書可差上存居候処、其出立間際種々多事取込、遂に不能其儀《そのぎをよくせず》、背本意《ほんいにそむき》恐縮之至に候。右便之節|何角《なにかど》は差上度存候に、差向思付も無之、東京近来の模様、新版書冊之出来候事、次へ々々と中々|承尽《うけたまはりつく》されも不申、右様多き内には、見るも無益と申品も多分有之、其内に思候に、医事関係之書なれば、自然可然ものも可有之哉共存候へども、当今之儀西洋家之品、時好に投候|品而已《しなのみ》多く、勿論拙老宅に引込罷在候而已に而《て》は、外間《ぐわいかん》新版物を聞見(候事)も少なく、仍而《よつて》思ひ候に、東京繁昌記なる者は馬鹿々々しき、何之役にも不相立、子弟之教育には勿論不相成候へども、只々貴兄久々東京を御覧無之故、此文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平の本《もと》やら不相分之実景を御慰に御目に掛度と存、折節阿部出立之頃は第二編之分出版未だ成就|致切《いたしきり》不申、近日中に必売出し初り可申由|承込《うけたまはりこみ》候故、幸便なれども何も得不差上《えさしあげず》候也。此度明後日出立に而河村大造立帰りに帰省致候由幸便を得候に付、不取敢此二冊呈上仕候。御笑納可被下候。呉々も東京現今之光景如此かと御覧御一笑に付し候迄之心得に候。呉々も馬鹿々々敷書に而は御坐候也。乍末行御家内皆様へ宜御伝声|奉希上候《こひねがひあげたてまつりそろ》。時下|御保重《ごはうちよう》黙祈《もくき》之至。先は幸便不取敢乍延引先般之御礼兼如此候。頓首。五月三十一日。関藤藤陰。伊沢棠軒様。」

     その三百六十二

 わたくしは明治甲戌五月三十一日に関藤藤陰が棠軒に与へた書を抄した。是は文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中より討《もと》め来つた婪尾《らんび》の獲《えもの》である。藤陰の簡牘は語路が錯綜して、往々紛糾解くべからざるに至り、句読を施し難くなつてゐる。又|歇後《けつご》の文が多い。しかし幅広く長《たけ》の促《つま》つた文字が、石を積むが如くに重畳してあつて、極て読み易い。文中「何角は差上度」は読んで「何か差上度」と作《な》すべきである。或は方言歟。
 此書が二月二十三日の棠軒の書に答へたものなることは、説明を須《ま》たずして明である。棠軒の書を齎した阿部|正貫《まさつら》は、福山より東京に至り、直に又東京より福山に帰つた。藤陰はこれに復書を託せむとしたが、書牘《しよどく》に添ふべき新刊書が未だ市に上らなかつたので果さなかつた。次で河村大造が東京より福山に往くに会して、藤陰は此書を託した。河村は己巳席順に「十二石二人扶持、河村大造、二十三」と云つてある。後の重固《しげかた》である。
 藤陰の書牘に添へて棠軒に贈つた新刊書は東京繁昌記である。藤陰は初二両編を併せ贈らうとした。然るに阿部の帰藩は二編の出でむと欲して未だ出でざる間であつた。六月の初に河村が東京を発する前に、藤陰は方《まさ》に纔《わづか》に二篇を贖《あがな》ひ得たのである。
 東京繁昌記はわたくしの架上に無い。わたくしは其初編二編が何時《いつ》何《いづ》れの書肆より発行せられたかを知らむと欲して、文淵堂主を煩はして検してもらつた。「初編は紀元二千五百三十四年四月、二編は同年六月|発兌《はつだ》と有之候。明治七年に候。書肆は銀座三丁目|奎章閣《けいしやうかく》山城屋政吉に候。政吉は日本橋通二丁目稲田佐兵衛の分家にて、塩谷宕陰《しほのやたういん》の門人に候。維新後古本商頭取になり、後市会議員、市参事員、衆議院議員に選ばれ、鉄管事件に遭逢して引退し、月島に住んで古版本を蒐集するを楽とし、希覯《きこう》の書数千巻を蔵するに至候。其蔵儲は今|悉皆《しつかい》久原《くはら》家の有に帰し居候。」按ずるに初編の「四月」は恐くは再三版であらう。藤陰は六月発兌の二編を、早くも五月末日に贖ひ得たのである。
 藤陰は東京繁昌記を評し、旁《かたはら》明治初年の社会に論及して、「文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平の本《もと》やら不相分之実景」と云つた。罵り得て痛快である。
 わたくしは端《はし》なく藤沢|東※[#「田+亥」、8巻−316−上−2]《とうがい》の江戸繁昌記評を憶ひ起した。東※[#「田+亥」、8巻−316−上−3]は初三編を読んで寺門静軒《てらかどせいけん》の才を愛した。「其辞不唯艶麗。亦能俊抜焉。其識不唯該博。亦能卓超焉。乃謂斯人実一世之雄。」既にして太平志を読み、又四編五編を読んで文品の低下に驚いた。「豈半塗而天奪之才乎。抑始有所倩。後失其人乎。」東京繁昌記は則《すなはち》初《はじめ》よりして疎拙であつた。「呉々も馬鹿馬鹿敷書に而は御坐候也。」
 藤陰の書牘と繁昌記とは六月七日に棠軒の手に到つた。「七日。(六月。)晴。三富甚左衛門来。東京関藤先生より書状及開化繁昌誌二冊到来、右持参之事。」藤陰の書と贈《おくりもの》とは河村大造より三富甚左衛門を経て棠軒に達したのである。阿部家の家従三富の事は既に上《かみ》に出でてゐる。

     その三百六十三

 わたくしは此より甲戌六月七日に棠軒が関藤藤陰の贈《おくりもの》を得た後の日録を抄する。
 棠軒は六月八日に家禄「十四石七斗」を奉還せむことを請うて、十五日に許された。「八日。(六月。)微雨。組頭熊田某へ行。終身禄奉還一件也。爰許戸長吉津へ右願書出す。」「十五日。雨。午後晴。終身禄奉還之儀御聞届相成候段戸長より申来。」熊田は己巳席順の「二十俵三人扶持、熊田保平、五十」若くは「二十俵三人扶持、物産役、熊田臨蔵、四十六」であらうか。吉津は小八郎と称した。
 七月に棠軒は子|徳《めぐむ》を算術の師前川某の許に遣つた。「廿三日。(七月。)晴。風。徳数学前川へ入門。」四たび其師を更へたのであらうか。前川は未だ考へない。
 十月に棠軒は「公債証書買上願」を呈出した。「九日。(十月。)晴。去七日出願書戸長へ出。十日進呈。同十一日御聞届。」七日に戸長役場に出し、十日に県庁に達し、十一日に裁可せられたのである。日録には全文が載せてあるが、今略する。「高百円に付八十円に」買ひ上げてもらひたいと請うたのである。宛名は「小田県権令矢野光儀殿」と書してある。光儀《くわうぎ》は竜渓文雄《りゆうけいふみを》さんの父ださうである。是月棠軒は外史の講義を終つた。「廿八日。陰。夜雨。外史講義一了。」
 十一月十五日には棠軒が養父榛軒の二十三回祭を行つた。「十五日。(十一月。)晴。風。時々雨。当日府君二十三回祭。飯田夫婦、貞白、東安、半、全八郎招請飲。」その「祭」と云ふより推すに、此年より神祭の式に遵《したが》ふこととしたらしい。十五日は歿日の前日である。来客中「半」は服部氏、是より先七月中に「半来」(十五日)の文がある。
 二十八日に棠軒は県庁に赴いて家禄に換へた「金百二十四円二銭五厘」を要請した。「二十六日。(十一月。)陰。微雨。午後晴。来廿八日小田県に而家禄奉還金御渡しに付受取証書。」(文は略する。)「廿八日。晴。小田県へ奉還金為受取、未明より人力車に而行。」県庁が此日に金を交付しなかつたことは、後の記に徴して知るべきである。
 十二月の日録には抄すべき事が無い。此年棠軒は「明治甲戌集」と題した詠草一巻を遺してゐる。「父君の二十三回忌に。はたちあまり三とせ経ぬれど今も猶さながら見ゆる父の面影。」詠艸は良子刀自の蔵する所である。
 此年磐の一家は東京にあつて寄留の所を変へた。良子刀自所蔵の文書に、「明治七年八月十日第一大区十四小区小網町四丁目五番地借店に寄留替をなす」と云ふ文がある。
 此年東京にある森枳園が「蘭軒遺稿」一巻を刊行した。時に枳園は年六十八であつた。富士川氏は三種の本を蔵してゐる。第一は漢文に国文を交へた草稿二巻で、蘭軒が末に下《しも》の語を書してゐる。「右之通に先々かたづけ候へども、如何可有御坐や。御削正奉願上候。医籍考には御説も御坐候事にや。委細御教示奉願上候。信恬拝。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭先生。」第二は旧稿中の国文を漢訳したもので、是も亦二巻を成してゐる。第三は枳園校刻の本一巻である。巻首に下の文がある。「伊沢信恬。字澹甫。号蘭軒又※[#「くさかんむり/姦」、8巻−318−上−9]斎。通称曰辞安。其著書有数十種。遺稿為其一。而二十年前刊行半成。適世事紛冗。西遷東移。舟車運漕。桜槧多亡失。今所拾摘二十条。僅々存九※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]之余香爾。明治甲戌第十月。枳園森立之。(印二。曰立之。曰壬申進士。)」全巻|凡《おほよそ》四十九|頁《けつ》である。「伊沢氏酌源堂図書記」の印記がある。
 此年棠軒四十一、妻柏四十、子徳十六、三郎五つ、女長(津山碧山妻)二十一、良十九(以上福山)、磐二十六、弟信平(宗家養子)十四、姉国(狩谷矩之妻)三十一、妹安二十三、柏軒の継室春五十であつた。

     その三百六十四

 明治八年は蘭軒歿後第四十六年である。棠軒は旧に依つて歳を吉津村の家に迎へた。「家家臘尽時。内感歳華移。安識郷人羨。全依祖考慈。」戯《たはむれ》に「家内安全」の字を句首に用ゐて作つたものである。
 一月二十四日に棠軒は家禄に換へた金を受けた。「二十四日。(一月。)晴。於小田県公債証書買上代御渡相成に付、受取に出頭可致之処、差合に付為名代尚差出、金百二十五円、二分引に而金百円受取候事。」(節録。)名代「尚《ひさし》」は上《かみ》にも見えた飯田安石の子である。
 二月十五日に棠軒の子|季男《すゑを》が生れた。「十五日。(二月。)陰。午後雨。夜九字安産、男子出生。」「廿一日。晴。出生七夜季男と名く。出産之届出す。」
 三月二十九日に森枳園の許より「いろは字原考」二冊が来た。「廿九日。(三月。)陰。東京森よりいろは字原考二冊到来。」いろは字原考は枳園の著す所で、其刊行の事は下《しも》に引く書牘《しよどく》に見えてゐる。此書は世間に多く存せぬらしく、わたくしは未だ寓目しない。又国書解題を検したが見えなかつた。
 五月八日に棠軒は「姫路鳥取行」の途に上つた。是は姫路に妹婿|土方伴《ひぢかたはん》六|正旗《せいき》を訪ひ、鳥取に顕忠寺中の兄田中悌庵が墓を展したのださうである。
「八日。(五月。)晴。今夜姫路鳥取行乗船。但安石同伴夜四つ時前|四《よ》つ樋《ひ》より竹忠船《たけちゆうふね》へ乗込。直出帆。」
「九日。晴。昼九つ時頃讚州|多度津湊《たどつみなと》へ著船。金刀比羅宮《ことひらのみや》参拝。夜五つ時頃人車に而《て》帰船。」
「十日。晴。多度津碇泊。」
「十一日。晴。暁出帆。暫時|与島《よしま》へ碇休。夕|出崎《でさき》碇泊。」
「十二日。晴。夜大風。暁出帆。小豆島へ碇泊。」
「十三日。風雨。同所碇泊。」
「十四日。晴。天明《てんめい》出帆。午刻頃播州|伊津湊《いつみなと》へ著船。同所より姫路迄四里半。此より上陸。三所川あり。何《いづれ》も昨雨に而出水。暮時姫路城内桐の馬場土方に著。」土方伴六は酒井忠邦の倉奉行であつた。贈遺を記する文中に「お柳」、「お作」の名があり、又「お作婿山本又市、今名《きんめい》もちよし」と云つてある。棠軒の妹にして伴六の妻なる烈に柳、作、久の三女があつた。柳は坂本氏に適《ゆ》き、作は山本氏に適き、久は長野氏に適いた。
「十五日。晴。逗留。」
「十六日。晴。午刻より土方出立。手尾《てを》迄伴六|亀児《かめじ》送来。夫より分袂《ぶんべい》。飾西《しきさい》、觜崎《はしざき》、千本《せんぼん》、三日月《みか
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