云つてある。按ずるに歿日は十三日、葬日は十四日であつただらう。墓誌に又かう云つてある。「君豪放。不肯為小廉曲謹。以投衆人耳目。而於医事則好古法。微密精到。不与今世医同流。謂苟為而止者非医也。傍好刀剣書画法帖。亦必以古。往々傾貲不顧云。(中略。)初良徳公之疾。衆医不以為意。独君憂之。屡上医案。不省。後果若其言。以是人皆服君卓見。」良徳公《りやうとくこう》は阿部正弘である。忠琢の歿後には妻|帰山《かへりやま》氏が遺つた。忠琢は己が古法帖を好んだので、子碧山をして小島成斎の門に入らしめたのであらう。
「十五日。晴。津山へ悔行《くやみにゆく》。」
「廿二日。晴。真野《まの》より被招行飲《まねかれゆきのむ》。此日陶後十七回忌。」真野竹亭の子|陶後頼寛《たうごよりひろ》は安政四年四月廿三日に歿したから、陽暦の忌日は五月十九日である。按ずるに改暦後、月を変へて日を変へずに五月二十三日とし、所謂|※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜《たいや》に客を招いたのであらう。当時の主人は陶後の子にして幸作の父なる竹陶兵助《ちくたうひやうすけ》五十四歳である。
「廿七日。晴。慧観童女七回忌※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜。貞白|来飲且飯《きたりいんかつはんす》。」慧観は棠軒の女|鏐《かね》である。慶応三年五月二十八日に夭した。
「十三日。(六月。)晴。風。吉田へ行、同道飯田へ寄。同家へ過日河合同居也。」飯田安石は女婿河合銀二郎の家族を迎へて同居せしめた。吉田は画師|洞谷《どうこく》である。
八月には棠軒の妻|柏《かえ》が大に病んだ。
「十四日。時々雨。夜大雨。四五日来お柏持病脳痛不出来之処、今暁尤甚。四肢|厥冷《けつれい》、脈伏寒戦に至る。」此より医師石川貞白、飯田安石、三好東安、河村意篤、内田養三等が来り診し、又|正覚院《しやうがくゐん》と云ふものが来て加持し、安石の女にして河合に嫁したお升《ます》、「吉田老母」等が夜伽のために来り宿した。吉田老母は洞谷の母であらう。「廿一日。陰雨《いんう》。柏子脳痛十八日来|漸々《ぜん/\》緩和に赴く。」「三十一日。晴。吉田老母今日迄逗留之処、今夕より帰宅。」柏の病は愈《い》えたのである。
「六日。(九月。)洞谷来飲。同人悴|直《なほし》今日より入学。」吉田洞谷の子直が棠軒の弟子となつた。棠軒弟子の入門は公私略にも日録にも多く見えてゐる。直の事は洞谷の子なるを以て特に抄出する。按ずるに所謂入門者は概《おほむね》皆医であらう。しかし直は必ず医となつたとも云ひ難い。同月十二日に「今日より外史講釈相始む」の文があるからである。外史の日本外史なることは勿論である。後に聞けば、直は幾《いくばく》ならずして吉田氏を去り、一たび甲斐氏を冒し、遂に本姓|前原《まへばら》に復して終つた。前原氏は神辺《かんなべ》菅氏の隣で、是が直の生家であつた。
その三百五十九
此より明治癸酉九月十二日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。晴。真野竹陶(兵助事)病死之趣|為知来《しらせきたる》。即葬送寺へ行。」「廿三日。晴。真野へ悔行《くやみにゆく》。」「廿六日。陰。微雨。夕微晴。真野へ被招行飲。当日初日|※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜《たいや》也。」真野竹陶は竹亭には孫、陶後には子で、今の幸作さんには父である。歿日は九月廿一日、寿は五十六である。
「五日。(十月。)晴。三沢へ行。お長縁談の返事。」「廿一日。晴。吉辰に付、長女津山碧山方へ結納取替。三沢老母周旋。」「十七日。(十一月。)長女津山へ縁談之願戸長へ差出す。」「十八日。晴。三沢へ行。」「二十日。時晴時雨《ときにはれときにあめ》。長女|鉄漿染《かねつけ》。三沢老母|賓《ひん》たり。吉田老母、お糸を招く。」「廿三日。晴。長女縁談願過日戸長迄申出置。願面|如左《さのごとき》よし。縁談願。私長女長。当酉二十歳。第二大区小十五区三百五十八番屋敷士族津山碧山妻に縁談|申合度《まうしあはせたく》此段奉願候也。年月日。第二大区小何区何番士族、伊沢某、印。右に付昨日|送籍証《そうせきしよう》一紙受取、今日野村方迄差遣す。」「廿五日。晴。津山氏へ長女道具送り遣す。房助卯三郎両人にて三度に舁送《よそう》す。」「廿六日。晴。長女津山碧山へ暮時出宅に而《て》嫁《か》す。引続自分及|徳《めぐむ》同家へ舅入行《しうといりにゆく》。夜四時前開く。安石、お糸、三沢老母、吉田老母、石川おきく等来。寛斎来。」「廿八日。晴。午後陰。夜半雨。杉山津山へ寄、吉田へ行。」「十日。(十二月。)晴。夜半雨。長女里開き。碧山、文女《ふみぢよ》、喜代女及三沢老母、其外貞白、洞谷、寛斎、吉田老母、お糸、旧婢《きうひ》たけ、卯三郎等来大飲。」「十五日。晴。内祝之赤飯配る。」「廿日。晴。長女来宿。」是が棠軒の女長の津山碧山に嫁した顛末である。わたくしは明治初年婚礼の一例として、特に詳にこれを抄した。
媒人《なかうど》は三沢|順民《じゆんみん》であらうか。少くも三沢氏が所謂橋渡をしたことは明である。三沢老母は順民の母、吉田老母は洞谷の養母、糸は飯田安石の妻、きくは石川貞白の妻、野村徳太郎は碧山の姉ちかの夫である。戊辰|東役高《とうえきだか》に「御通掛新番組、野村徳太郎、廿一」と云つてある。文、喜代は津山氏の家族であらう。卯三郎、房助、たけは奴婢である。
此婚嫁は棠軒がその愛する所の女を出して、親む所の友に嫁したのである。只俗に随ひ礼を具へたに過ぎなかつたであらう。
長子刀自の福田氏に語るを聞くに、碧山には先妻|武藤《ぶとう》氏があつて、一女を遺して歿した。津山直次郎は此女のために迎へられた婿で、大正五年十二月十五日に歿し、其長子は図按家になつてゐるさうである。
十月以後、棠軒の女長が于帰《うき》の事のあつた旁《かたはら》に、尚二事の記すべきものがある。棠軒が冢子《ちようし》徳《めぐむ》のために算術の師を択んだのが其一である。十月六日の下《もと》に云く。「徳今夕より中村某へ遣す、算術。」阿部正弘の継室|謐子《しづこ》の死が其二である。十月十八日の下に云く。「去五日清心院様御逝去被遊候由。」十一月六日の下に云く。「小鼓へ行。過日清心院様御逝去之御機嫌伺取計之一礼。」十一月廿二日の下に云く。「清心院様御四十九日御相当に付兼而勤仕之者申合於定福寺少分之御供養申上。」十二月二十六日の下に云く。「清心院様為御遺物金二百疋被成下候趣、三富氏より貞白受取持参。」謐子は糸魚川の松平日向守直春の女、越前の松平越前守|慶永《よしなが》の養女で、正桓《まさたけ》の夫人|寿子《ひさこ》は其出である。小鼓《こつゞみ》は己巳席順の「十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵、五十四」で、同席順の「十人扶持、御足十人扶持、鼓泰安、五十九」の大鼓《おほつゞみ》に対《むか》へて言ふのであらうか。猶「鼓兆安、鼓定」と云ふものも同席順に見えてゐる。三富氏は己巳席順に「百廿石、御附奥家老、御家従、三富甚左衛門、五十八」と云つてある。
その三百六十
わたくしは棠軒日録を抄して明治癸酉の歳暮に至つた。
此年は伊沢氏と旧好ある人々の中で、門田《もんでん》朴斎と渡辺|樵山《せうざん》との歿した年である。朴斎の死は行状に拠るに一月十一日|戌牌《じゆつはい》で、年を饗《う》くること七十七であつた。墓表は小野湖山が撰んだ。其末に銘に代へて絶命の詞《ことば》が刻してある。「父母教吾学仲尼。滔々天下変為夷。病而不死亦良苦。待尽青山埋骨時。」朴斎の生涯は西洋嫌を以て終始してゐる。棠軒が此人の死を録せなかつたのを見れば、棠軒と門田氏との間には親交が成り立つてゐなかつたかも知れない。
渡辺樵山は十二月十八日に東京渋谷村に歿した。年五十三であつた。わたくしは上《かみ》に榛軒が此人を請じて経を講ぜしめたことを記し、後に慊堂《かうだう》日暦中より、其父の※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園《かうゑん》と号したことを検出して補つた。しかし安井息軒が樵山の墓に銘したことを知らずにゐた。それは息軒遺稿が偶《たま/\》これを載せてをらぬ故である。
頃日《このごろ》事実文編を繙閲して、図《はか》らずも息軒撰の墓碑銘を発見した。樵山の系は源融《みなもとのとほる》の曾孫渡辺綱から出でてゐる。「父諱昶。字奎輔。以医仕膳所侯。娶才戸氏。生君于江戸鱸坊之僑居。」按ずるに慊堂日暦の※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園は此|昶《ちやう》である。昶は或は「とほる」と訓ませたものではなからうか。膳所《ぜぜ》侯は本多隠岐守|康融《やすとほ》である。「鱸坊」は今の京橋区鈴木町である。本多家の上屋敷が南八丁堀にあつたから、※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園は鈴木町に住んでゐたのである。
「年甫十一。奎輔得疾。自知不起。托君及弟璞輔於慊堂松崎先生。輿疾帰近江。未幾歿。二孤皆有才。先生愛之。視猶子。嘗贈之詩曰。吾園梅百樹。汝独可超凡。及慊堂先生歿。以遺命守羽沢草廬三年。既而卜居青山。生徒漸進。万延庚申九月。釈褐於紀藩。(中略。)元治甲子。幕府有召見之命。三月謁二条城。(中略。)慶応乙丑。参枢機。(中略。)明年十一月遷小姓頭。明治戊辰。拝奥祐筆組頭。累遷参政。三年五月。免参政。」※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園が樵山と其弟とを松崎慊堂の石経《せきけい》山房に託して近江に帰つたのは、天保二年である。弟|璞輔《はくすけ》は慊堂日暦の百助である。慊堂の歿した弘化元年より三年間石経山房を守つてゐたとすると、樵山は二十四歳より二十七歳に至る間|羽沢《はねざわ》にゐたのである。さて弘化四年中に樵山は青山に徙《うつ》つたであらう。万延元年紀州藩に仕へた時は、樵山は四十歳であつた。紀州藩は猶中納言|茂承《もちつぐ》の世であつた。元治元年に将軍家茂に謁した時は、樵山は四十四歳であつた。
若し此|年立《としだて》にして誤らぬならば、樵山が経を伊沢氏に講じた月日は、羽沢時代より青山時代に及んでゐる筈である。
わたくしは此に狩谷氏移居の事を附記したい。一説に狩谷|矩之《くし》が本所横川の津軽邸より上野広小路に移つたのは、明治五六年であつたと云ふ。しかし是は稍後の事であつたらしい。猶|下《しも》にこれに言及しようとおもふ。
此年棠軒四十、妻柏三十九、子徳十五、三郎四つ、女長二十、良十八(以上福山)、磐二十五、弟平三郎十三、姉国三十、妹安二十二、柏軒の継室春四十九(以上東京)であつた。
その三百六十一
明治七年は蘭軒歿後第四十五年である。棠軒は又歳を福山に迎へた。一月中には事の記すべきものが無い。二月十一日に子|徳《めぐむ》を算術の師村田某の許へ遣つた。「十三日。晴。一昨日より徳村田某へ数学稽古に行。」是月棠軒は書を東京にある関藤藤陰《せきとうとういん》に寄せた。「廿三日。(二月。)陰。午後晴。阿部近日東京出立に付、分家、清川、森、関藤(菓子料二百疋添)等へ書状出す。」藤陰は二年前の冬より東京に来てゐたのである。癸酉歳旦の詩の引に、「余自壬申冬、来在藩主阿部氏本所横網邸」と云つてある。阪谷朗廬《さかたにらうろ》はかう云つてゐる。「会廃藩命下。正桓君例以華族。移住東京。而家制不定。衆以為非招先生不可。強以賓師委重。先生弗得辞。曰骸骨竟有宿縁於東地歟。便復移家。経理画一。更選人授之。絶交閑居。賦詩自楽。」想ふに棠軒の書を寄せた時には、藤陰は既に閑散の身となつてゐたであらう。棠軒の書を託した阿部は阿部|正貫《まさつら》である。己巳席順の「百八十石、家扶、阿部小重郎、四十三」と同人であらうか。分家|磐《いはほ》、清川安策、森枳園との間には、此前後に雁魚《がんぎよ》の往復があつたが、省《はぶ》いて抄せなかつた。
五月に棠軒が子徳を算術の師関某の許に遣つた。「九日。(五月。)徳今夕より関へ数学入門。」三たび師を更《か》へたのであらうか。是月の末に東京にある藤陰が書を棠軒に寄せた。其文
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