る。儻《もし》くは生家の祖母か。前年の日録は記載を闕いてゐる。
「廿日。陰。示幻童女《しげんどうによ》三十三回忌。」天保己亥に歿した榛軒の女《ぢよ》久利《くり》である。
「廿三日。晴。知事様御免職。」阿部|正桓《まさたけ》が福山藩知事を罷められたのである。
「廿九日。晴。午後驟雨。夜又雨。午前より森へ行。此日平野亀三郎同家へ養子願済引移、夕又平野へ里開《さとびらき》。」森枳園は平野氏亀三郎を養つて子とした。亀三郎の生父は杉右衛門と称した。己巳席順に「五十五俵、平野杉右衛門、四十八」と云つてある。是より先七月七日の条に「森、平野、再森へ行、養子一件」の文があり、又八日の条に「杉右衛門来、森へ行、森養子一件」の文があつた。是に由つて観れば、媒妁者は棠軒であつた。按ずるに亀三郎は春雄の長女くわうに迎へられた婿である。
「廿一日。(八月。)雨。夕晴。飯田ます女河合銀二郎へ縁談。今日吉辰に付引移、右に付飯田へ行飲。」ます女は安石の女であらう歟。河合氏の事は未だ考へない。或は下《しも》に見えてゐる友翁《いうをう》の子か。

     その三百五十五

 明治辛未八月二十一日後の棠軒日録を続抄する。
「十九日。(九月。)晴。明廿日前知事様|方々様《かた/″\さま》東京|御引越《おんひきこし》に而《て》御発駕|被遊《あそばさる》。石川御供に而出立に付暇乞に行飲。」阿部正桓が福山より東京に遷り、石川貞白が随従するのである。
「廿日。晴。又微雨。御発駕御延引相成候。右者《みぎは》六郡の村民一揆|強訴《がうそ》、市中乱暴、其上浜野両家及津川高島等焼立候に付。」浜野章吉、浜野徳蔵、津川徳太郎、高島鉄之助の家か。章吉、名は王臣《わうしん》、字《あざな》は以寧《いねい》、箕山《きざん》又|猶賢《いうけん》と号した。災《わざはひ》に遭ふものは皆其族人であつたらしい。擾乱の由来等は不詳である。
「廿一日。晴。不得已《やむをえず》強訴之者打払之令出、近郷迄兵隊罷出警衛相成候。」
「廿四日。晴。未穏《いまだおだやかならず》。尤《もつとも》御城内相詰候非役之面々一旦引取に相成候。」
「十一日。(十月。)晴。風。午後止。河合友翁来。森亀三郎家督被仰付、悦行飲《よろこびにゆきのむ》。」按ずるに枳園養竹は早く致仕し、春雄が家督相続をしてゐたので、今亀三郎は春雄の後を襲《つ》いだのであらう。友翁は或は飯田安石の女婿銀二郎の生父か。
「二日。(十一月。)石川明日御供出立に付行飲。」阿部正桓東行の日が再び卜せられたのである。
「三日。晴。前知事様御初方々様方東京為御引越午後御乗船。右に付川場迄御見送出。」正桓は遂に家を挙げて福山を発した。
「四日。晴。養竹妻病死之由、以金沢源二郎|為知来《しらせきたる》。即刻|悔行《くやみにゆく》。」
「五日。晴。森葬送に付、早朝より行。」枳園の妻勝は三日に歿し、棠軒は四日に訃を得て往いて弔し、五日に送葬した。墓は福山東町賢忠寺にある。浜野氏は墓表を写した。「貞荘院敬徳明慧大姉、明治四年十一月三日、森立之妻。」
「七日。(十二月。)晴。風寒甚《かぜさむきことはなはだし》。石川貞三昨夜帰著に付、悦行飲。」貞蔵、初の称|厚安《こうあん》、貞白の子である。
 此年八月十三日に静岡にある柏軒の子|孫祐《まごすけ》が九歳にして夭し、翌十四日に大在家《だいざいけ》村天徳院に葬られた。法諡《はふし》白露清光禅童子である。良子刀自所蔵の文書中に、孫祐葬儀の時の「諸用留《しよようどめ》」一冊がある。孫祐の死は棠軒日録の辛未の部に見えない。或は訃音が至らなかつたものか。
 此年棠軒三十八、妻柏三十七、子平安十三、三郎二つ、女長十八、良十六(以上福山)、磐安二十三、弟平三郎十一、姉国二十八、安二十、柏軒の妾春四十七であつた。
 明治五年は蘭軒歿後第四十三年である。棠軒は又年を福山に迎へた。「正月元日。晴。御祝儀非役之面々|無之《これなし》。已廃三朝古典刑。曾無賀客至山※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]。唯余一事猶依旧。独坐焚香読孝経。」
「二日。(二月。)陰。夕雨《ゆふべあめ》。貞蔵来。貞白午刻東京より帰着之由。右に付悦行飲。」
「二十二日。晴。断髪す。」按ずるに棠軒は剃髪せずにゐたので、今俗に随つて断髪したのであらう。
「二十三日。晴。養竹明日吉野発途之由申来。肴切手持行飲《さかなきつてもちゆきのむ》。」森枳園吉野の遊である。此事は藤陰舎《とういんしや》遺稿にも見えてゐるから、少しく下《しも》に補叙しようとおもふ。時に枳園は年六十六であつた。

     その三百五十六

 わたくしは棠軒日録を抄して明治壬申に至り、二月二十三日が森枳園の吉野へ立つ前日だと云つた。藤陰舎遺稿に七絶一首がある。「送人遊芳野、此詩送高田聾翁、森養竹者、二人非同行、前後一二日、相継発程。欲看芳山万樹桜。旅装纔挈一瓢行。宛然先輩尋花去。栢笠飄飄菅笠軽。自註、芭蕉、宣長。」高田氏の名は遺稿丙子の巻《まき》に重見《ちようけん》してゐる。「寄高田聾翁」と題するものが是である。己巳席順の「廿二俵三人扶持、高田段兵衛、六十六」である。段兵衛、後段右衛門と称した。号は杏塢《きやうう》、晩に聾翁《ろうをう》と云ふ。一時藤井松林、吉田東里と倶に福山の三画史と呼ばれた。
 枳園は前年辛未の夏実子|約之《やくし》を失ひ、冬|妻《さい》勝《かつ》を失ひ、家を養嗣子亀三郎に託して此遊の途に上つたのである。枳園の此遊には必ず詩文があつたであらう。しかし一として世に伝はつたものが無い。
「廿五日。(三月。)晴。花影《くわえい》童女五十回忌に付、柏《かえ》賢忠寺参詣。」花影は文政六年三月二十五日に夭した蘭軒庶出の女《ぢよ》順《じゆん》である。
「十一日。(五月。)雨。徳《めぐむ》今日より岡へ遣す。十八史略講義聴聞也。」徳のために十八史略を講じた岡氏は岡待蔵、後の寛斎であらう。徳時に年十四であつた。
「廿四日。雨。昨日安石隠居願済。」飯田安石は壬申五月二十三日に致仕したのである。時に年四十九であつた。
「廿二日。(七月。)晴。待蔵事寛斎来。」岡待蔵が新に寛斎と改称したのは此時である。時に年三十四。
「廿九日。(八月。)雨。成田竜玄昨夜物故、今日葬送、徳代参遣す。」成田竜玄が壬申八月二十八日の夜に歿したのである。
「三日。(九月。)陰。河合へ行。去晦日《きよつごもり》友翁妻病死之悔。」河合友翁の妻が壬申八月三十日に歿した。飯田安石の女婿銀二郎の生母であらう。
「廿四日。晴。岡寛斎近日東京出府に付、於飯田宅別杯相催す。」寛斎の祖筵が飯田安石の家に於て開かれたのである。
「廿五日。晴。森へ行飲。同家年内東京転移に付、一切相談也。」枳園の家族が将に東京に移り住まむとするのである。
「廿六日。晴。今暁岡寛斎出府乗船之処、夜汐《よしほ》に延引之由、再行飲。」寛斎は壬申九月二十六日の夜福山を発して東上したのである。
「廿八日。晴。徳《めぐむ》啓蒙所《けいもうしよ》夜会に出す。」啓蒙所は学校の名か。
「十六日。(十一月。)晴。夜雨。柏断髪す。」曾能子刀自が三十八歳にして断髪した。恐くは病の故であつただらう。
「廿一日。晴。冬至。東京森養竹より書状到来。」是より先是月五日の下《もと》に「森へ行、同家引越一条に付、大黒屋直右衛門方へ行」の文があり、次年一月に至るまで屡「森へ行」の文がある。按ずるに枳園は吉野に遊んでより後、復福山に帰らずして、東京に入り、今家族を迎へ取らうとするのである。寿蔵碑に「明治五年壬申二月辞福山、漫遊諸州、五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕」と云つてある。時に枳園は六十六歳になつてゐた。
「二日。(十二月。)晴。夜雨。今般大陰暦御廃し、太陽暦御採用に付、明三日より一月第一日と御改正被仰出。」
 静岡の伊沢氏では、此年四月に磐安が磐《いはほ》と改称し、又七月に東京に遊学し、塩田氏に寓した。良子刀自所蔵の文書に、「明治五年七月東京第一大区十一小区東松下町三十七番地工部省七等出仕塩田真方寄留」の文がある。塩田|良三《りやうさん》は既に真《まさし》と改称して、工部省に仕へてゐた。
 此年棠軒三十九、妻柏三十八、子徳十四、三郎三つ、女長十九、良十七(以上福山)、磐二十四、弟平三郎十二、姉国二十九、安二十一、柏軒の妾春四十八(以上静岡)であつた。

     その三百五十七

 明治六年は蘭軒歿後第四十四年である。棠軒は又年を福山に迎へた。一月より二月に至る間には、只棠軒の妻柏が一たび病んで後|愈《い》えたこと(一月二十六日)、江木鰐水が棠軒を訪ひ(一月五日)、又棠軒が江木氏を過《よぎ》つたこと(一月十日)、棠軒が屡森枳園の留守を顧みたこと(一月五日、七日、八日)等がわたくしの目に留《とま》つたのみである。
 三月以下には良子刀自所蔵の文書中に、磐安改磐の日記の断簡があつて、棠軒日録と両存してゐる。わたくしは二者を併せ抄することとする。
 三月二日。磐が東京を発して静岡に向つた。家族を迎へ取らむがためである。当時磐の身分は「静岡県貫属士族」で、其戸籍は「静岡第五大区百姓安右衛門方同居」であつた。俸禄は「現米十八斗」であつた。家族は「母春、妹安、弟平三郎」と云つてある。姉国は狩谷|矩之《くし》の妻である故、家族中に算してない。亡父柏軒の妾春は既に磐の母として事《つか》ふる所となつてゐる。磐は東京を発するに至るまで、「南紺屋町佐藤勘兵衛方」に寄寓してゐた。
 五日。磐は静岡に著いた。
 九日。磐は全家の東京に寄留せむことを静岡県庁に稟請《りんせい》し、兼て静岡に於ける「留守心得」を指定した。東京に於ける寄留先は「第二大区十五小区麻布南日窪町医師伊沢信崇方」即所謂鳥居坂の宗家である。当時|信崇《しんそう》は年三十四であつた。
 静岡に於ける留守心得は「呉服町一丁目多喜後家ひさ方比留正方」である。
 十三日。磐は家族を率《ゐ》て静岡を発し、「富士郡前田村加藤要蔵方」に宿した。
 十四日。磐一行は前田村を発し、「三島駅世古六大夫方」に宿した。
 十五日。一行は三島を発し、「小田原駅三河屋」に宿した。
 十六日。母春、妹安は小田原に駐《とゞま》つて、磐等は藤沢に至り、相生屋《あひおひや》に宿した。

 十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵《いた》つた。
 二十二日。磐は全家《ぜんか》の塩田真の許に寄留せむことを、「第一大区十一小区扱所」に稟請した。
 二十四日。磐は「電信寮自費修行願」を作つて塩田真に託した。電信技手たらむと欲したのである。
 二十八日。「仙次郎小田原より母及妹を送り来る。」仙次郎は磐の曾て寓した相模国山下村農家の主人であらう。春、安の二女は塩田の家に著いたのであらう。
 四月一日。「平三郎鳥居坂本家信崇の養子となり、名を信平と改む。」磐の弟の宗家に入つたのは此時である。当時養父信崇三十四歳、養子信平十三歳であつた。
 三日。「全家麻布南日窪町町医伊沢信崇方へ寄留すとの届を小区役所に出す。」寄留籍が塩田氏より鳥居坂伊沢氏に移されたのである。
 三四月の間、棠軒日録には事の抄するに足るものが無い。強て求むれば、津山碧山(四月廿二日)岡寛斎(同二十九日)が棠軒を訪うた事がある。寛斎は四月二十七日に東京より福山に往つた。

     その三百五十八

 わたくしは此より明治癸酉五月以後の棠軒日録を抄する。
「五月一日。晴。長女河合へ遣《つかは》す。去《さんぬる》十七日友翁旅中病死之悔。」友翁は飯田安石の女婿銀二郎の生父であつたらしい。然らば銀二郎は前年壬申九月三日に生母を失ひ、今又生父を失つたのであらう。旅中とは何《いづ》れの地にあつたのか不詳である。
「六日。晴。河合友翁葬送に付、名代|徳《めぐむ》遣す。」
「十四日。晴。津山忠琢病死之旨為知来。夕観音寺葬送|見立行《みたてにゆく》。」棠軒の女長の婿となるべき碧山の生父である。五十川※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《いかがはじんだう》撰の墓誌に、「年七十七、以疾卒、葬吉津村観音寺、寔明治六年五月十三日」と
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