信が東京に達したのは二十六日後であつた。わたくしはその余りに遅きに驚いたが、是は異例であつた。後には四月廿二日に福山を発した書が五月|朔《さく》に達してゐる。即ち八日後である。
「十一日。(五月。)夕雨。知事様御事|去《さんぬ》る五日福山表御発船被遊、昨夕丸山邸へ御著被遊候。」阿部|正桓《まさたけ》の入京である。後三日、十四日に「御上大君為御機嫌御伺御出被遊候」の文がある。正寧《まさやす》を石原に省したのである。
「七日。(六月。)微晴。権少参事村上半蔵より申来《まうしきたる》如左《さのごとし》。然者《しかれば》貴様儀御隠居様御不快為御看病出府被仰付候処、更に在番被仰付候旨、創殿《はじむどの》被仰渡候間、御談《おんだんじ》申候、以上。六月七日。尚々御隠居様御看病之儀、三好東安同様申合御介抱申上候様被仰付候。」棠軒の逗留が在番の名義に改められたのである。村上半蔵は己巳席順に「百三十石」と註してある。創は岡田氏。
「十九日。晴。浅田宗伯|伺出《うかゞひにいづ》。」正寧が浅田栗園を請じたのである。以下|復《また》抄せない。
「廿三日。夕雨。玄道来。」棠軒は入京以来殆日ごとに清川氏と往来してゐる。しかし「玄道」の称は始て此に見えてゐる。故《もと》の安策が父の称を襲《つ》いだのである。
「廿九日。夕雨。雷鳴。今日より詰切被仰付。」正寧の病|革《すみやか》なるが故である。
「七月朔日。晴。暮六時御絶脈被遊候。」正寧の捐館《えんくわん》である。年六十二。正精の子、正弘の兄、正教正方の父である。
「三日。雨。冷気甚。暮時御入棺。」正寧の斂《れん》である。
「五日。微雨。御隠居様昨卯上刻御逝去被遊候に付、為伺御機嫌《ごきげんうかゞひとして》今五日四時より九時迄之内、改服に而出仕可致旨。丸山御住居へ出御謁並手札差出。」正寧の発喪である。
「十日。晴。夜雨《やう》。今朝御出棺。西福寺《さいふくじ》自拝罷出《じはいまかりいづ》。」正寧の葬《はうむり》である。西福寺は浅草新堀端。
「十三日。晴。」是日棠軒は長谷寺《ちやうこくじ》に詣でた。其記に「鳥居坂へ寄、午飯」の文がある。宗家伊沢は幕政の時より居を徙《うつ》さずにゐるのであつた。当主|信崇《しんそう》は三十一歳であつた。
「五日。(八月。)雨。常徳院様御三十五日御当日に付、御遺物頂戴被仰付。如左。金巾《かなきん》御紋付御小袖一つ、※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]《さらし》御紋付一つ、為別段《べつだんとして》唐桟御袴地一つ、唐更紗御布団地一つ、計四品、於御納戸頂戴。」常徳院は正寧の法諡《はふし》である。
「十二日。晴。」来客中に「矢島元碩」がある。「元碩」は玄碩に作るべきで、渋江抽斎の子|優善《やすよし》が養父の称を襲いだのである。日録に優善の事を記する始である。優善は当時三十六歳であつた。
「十三日。晴。」是日阿部家に画幅の払下があつて、棠軒は数幅を買つた。明治初年の書画の価《あたひ》を知らむがために其一二を抄する。「探幽雲山一軸代金一両二分、常信花鳥一軸代金三分。」
「廿五日。晴。家書及飯田書状来る。本月三日男子出生之由。」公私略に「名、三郎」と云つてある。
「廿七日。晴。此日初而乗人力車。」東京に人力車の行はれた始であらう。

     その三百五十二

 庚午八月二十七日後の棠軒日録を続抄する。
「廿二日。(九月。)微雨。福山内田養三より申来《まうしきたる》左如《さのごとし》。自分事御家内医官、東安同補、先達而《せんだつて》被仰付候由。尤医官次席之事。権少村上氏より申来如左。自分事在番被仰付置候処、御免被仰付候旨。」棠軒は家内医官を拝し、三好東安は家内医官補を拝したのである。家内医官とは阿部家の家庭医師を謂ふか。内田養三は福山にある同僚である。棠軒は同時に在番を解かれた。三好は是より先、是月六日に在番を解かれ、次日二十三日に東京を発して福山に向ふこととなつてゐた。「権少村上」は権少参事村上半蔵の略である。此二事は棠軒公私略も亦これを載せてゐる。
「廿九日。晴。道中御手当金二十八両一分一朱と銭五百三十三匁受取。明後|朔日《ついたち》出帆決定。」
「十月朔日。晴。朝六時石原御門前より川崎屋船に乗組、南新堀|万屋《よろづや》正兵衛方へ一先《ひとまづ》落著、黄昏和歌山蒸汽明光丸へ乗組。船賃九両茶代金二百疋。」
「二日。晴。今朝五時前出帆。」
「四日。晴。暁七時|浪華《なには》天保山沖へ著。天明より小舟一艘|雇《やとひ》、土佐堀御蔵屋敷へ著。」
「五日。微晴。時雨《ときにあめ》。藩邸より伏見夜船賃受取。夕刻煙草屋藤助一六船利徳丸へ乗組、新堀迄出帆。」
「六日。晴。夜微雨。今朝新堀出帆。」
「八日。晴。夕七時福山木綿橋へ著船上陸。安石、洞谷、待蔵、徳児等迎来。」此旅行は公私略に只発著を記するのみである。
「十三日。雨。九月八日岡山奥小野崎姉君御病死之旨今日|御達《おんとゞけ》差出《さしいだし》、一日之遠慮引いたし候。」公私略に同文がある。只小野崎を「斧崎」に作つてある。棠軒の姉は田中氏か。
「十五日。(閏《じゆん》十月。)晴。日暮雨。殿様昨夜|鞆津《ともつ》へ御著船被遊、今九時御帰藩被遊候に付、平服に而御祝儀出勤。」阿部|正桓《まさたけ》の帰藩である。
「十七日。晴。内願《ないぐわん》差出左之通。覚《おぼえ》。私拝領仕候御紋附類悴|徳《めぐむ》へ著用為仕度奉内願候、以上。私拝領仕候木綿御紋附御羽織異父兄飯田安石へ相譲申度奉内願候。以上。両通共勝手次第之旨、御頭《おんかしら》乾三殿|被申談候《まうしだんぜられそろ》。」乾三は己巳席順に「吉沢乾三」と記してある。
「十日。(十一月。)晴。午後雨。微雪。三児種痘。」三児は三郎、当歳。種痘は遂に伊沢氏に入つた。
「七日。(十二月。)晴。津山へ行飲《ゆきのむ》。行三《かうざう》挙家《きよか》一昨日引越著に付。」津山碧山は当時行三と称した。父忠琢も共に福山に来たのである。五十川※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《いかがはじんだう》の文に「扈君夫人、移居福山、時君(忠琢)既致仕、而有此命、蓋特典也」と云ふは、此時の事であらう。是に由つて観れば、津山氏の移徙《いし》は忠琢が召された故である。君《くん》夫人は正弘の第六女にして正桓の初の室|寿子《ひさこ》か。寿子は当時二十一歳であつた。

     その三百五十三

 庚午十二月七日後の棠軒日録を続抄する。
「十八日。陰。藩庁御制度御変革諸官員御減省に付而者《ついては》、御家政向も右に准じ御減省、且御家禄之内御減数之儀も有之、依而免職被仰付。三好東安、自分、津山忠琢、右に付金三百疋づつ頂戴被仰付。」棠軒が三好、津山と共に所謂家内医官を罷められたのである。
「廿八日。晴。御奥御改革|御人減《おんひとべらし》に付、長女御暇被下下宿。」棠軒の女長が阿部家の奥より下げられたのである。棠軒公私略は棠軒自己の事を載せて、其女の事を載せない。
 此年棠軒三十七、妻柏三十六、子平安十二、女長十七、良十五(以上福山)、磐安二十二、弟平三郎十、孫祐八つ、姉国二十七、安十九、柏軒の妾春四十六(以上静岡)であつた。
 明治四年は蘭軒歿後第四十二年である。棠軒一家は又年を福山に迎へた。
「正月元日。晴。」此日の記事中「春雄来」の句がある。春雄は森枳園の子約之の維新後の称なることが其墓表に由つて証せられる。時に約之は三十七歳であつた。「六日。晴。」「七日。晴。」此二日の間に、棠軒は四十二家を廻礼してゐる。其中酒を饗した家が八軒で、其一は関藤藤陰《せきとうとういん》の家である。
「十七日。(二月。)雨。夕晴。慧※[#「王+隣のつくり」、第3水準1−88−25]童女《ゑりんどうによ》七回忌、得悟童子来廿八日三回忌之処取越、法事執行、今日|※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜《たいや》也。大賢尼来読経。」按ずるに慧※[#「王+隣のつくり」、第3水準1−88−25]は棠軒の女|信《のぶ》の法諡《はふし》である。信は慶応紀元二月十八日に夭した。※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜は原《もと》荼毘《だび》前夜であるが、俗間には法要の前夜を謂ふ。此には後の義に用ゐてある。得悟は棠軒の子紋二郎の法諡である。紋二郎の夭折は、軍行日録に徴するに、戊辰の三月であつた。そして記事に其日を佚してゐた。今本文に由つてその戊辰二月二十八日に夭したことを知るべきである。
「七日。(四月。)晴。棠軒と改名願書差出す。尤《もつとも》当用内田養三取計。」所謂改名は道号を以て通称としようとしたのであらう。春安|信淳《のぶきよ》には棠軒、小棠軒、谷軒《こくけん》、尚軒、芋二庵《うじあん》の諸号があつた。以上は歴世略伝の載する所である。又|海紅《かいこう》の号があつたらしい。軍行日録に「海紅主人伊沢春安」と署してある。
「八日。陰。午後吉田へ会合。主人、貞白及小島金八郎並に尚《ひさし》同伴、山《やま》六|船《ぶね》に而《て》讚岐|金刀比羅宮《ことひらのみや》参詣。夜四時過乗船、夜半出船。尤同日安石より御届取計。」棠軒は福山を発して讚岐|象頭山《ざうづさん》に向つたのである。一行凡五人であつた。吉田の主人《あるじ》は洞谷であらう。貞白は石川氏である。小島金八郎は戊辰席順に「料」の肩書がある。恐くは料理人であらう。年は辛未三十歳であつた。尚は小字《せうじ》誠之助、飯田氏の嗣子である。棠軒は発するに臨んで、飯田安石をして県庁に稟《まう》さしめた。
「九日。晴。暮六時多度津へ著船。夫より乗馬に而|御山《みやま》迄行。時《ときに》三更前|鞆屋《ともや》久右衛門に一泊。」
「十日。晴。朝登山。鞆久《ともきう》に而午飯之上乗船、初更頃出帆。」
「十一日。雨。午後八半時過著船。夜六半時頃帰宅。」公私略の記事は此に終る。此より下《しも》は日録を抄することを得るのみで、復《また》公私略を参照することを得ない。

     その三百五十四

 明治辛未四月十一日後の棠軒日録を続抄する。
「廿六日。晴。関藤《せきとう》へ行。政太郎病死之悔。」わたくしは関藤藤陰の詳伝を知らない。しかし其長子政太郎は、文化四年生れの藤陰が蜷川《になかは》氏を娶《めと》つて、弘化三年四十歳の時にまうけたものである。明治二年の席順には「二百石、御足百石、関藤文兵衛、六十三」と云ひ、「十二石、関藤政太郎、廿三」と云つてある。辛未に政太郎が早世したとすると、其|齢《よはひ》は二十五歳で、父の六十五歳の時に終つたのである。阪谷朗廬《さかたにらうろ》撰の墓誌には、「配蜷川氏、先歿、有二男、長曰政太郎、成立受譲継家、不幸早世、次子亦先夭」と云つてある。然らば藤陰は当時既に致仕して、政太郎は戸主となつてゐたのである。
「十三日。(五月。)晴。午後微雨。関帝祭祀。安石夫婦来|割烹《かつぱうす》。」関帝を祭ることは、維新後にも未だ廃せられずにゐた。飯田安石と其妻とが来て庖厨の事を掌《つかさど》つた。
「晦日。晴。柏《かえ》飯田へ行。」曾能子刀自は猶柏と称してゐた。飯田は安石の家である。
「三日。(六月。)土用入。晴。午後微雨。森春雄今暁病死之由申来る。」森枳園立之の子約之である。年は三十七になつてゐた。浜野氏は頃日《このごろ》福山賢忠寺の墓を訪うた。「文定院斉穆元信居士、明治四年未六月三日、森春雄約之墓」と刻してあるさうである。
「六日。晴。夕森へ悔行《くやみにゆく》。」子を喪つた枳園夫妻を訪うたのである。
「三日。(七月。)岡山より姉君遺物到来。」前年九月八日に歿した棠軒の姉があつた事は上《かみ》に見えてゐる。
「四日。晴。驟雨雷鳴。於会計六箇月分扶持銀受取。札三貫四百十六匁四分也。」当時棠軒の受けた俸銭である。
「十五日。雨。朝より晴。盆踊瞥見。」猶盆踊の俗が廃《すた》れずにゐた。
「十九日。雨。此日祖母一週忌|※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]夜《たいや》也。」祖母とは誰か。文政十二年二月五日に歿した蘭軒の妻飯田氏|益《ます》にあらざることは明であ
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