み》んがために、正桓が東京へ急行した。随行の医官は松尾立造であつた。
「廿四日。晴。」是日棠軒の歴訪した五家の中に又関藤がある。第五次の往診か。
「七日。(十二月。)晴。柏《かえ》他行《たぎやう》。」曾能子刀自の未だ名を更めてをらぬことが知られる。
「十一日。陰。三沢玄閑一周忌に付観音寺仏参。」此玄閑は恐くは順民の父、礼介の祖父であらう。戊辰十二月十一日に歿して、観音寺に葬られたと見える。
「十四日。晴。狩谷より書状到来。」当時※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎望之の養孫にして、懐之の養子なる矩之が二十七歳であつた。矩之は維新後明治五六年頃に至るまで津軽家の本所横川邸に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居してゐたさうである。書状は或は此家に移つた後に発したものか。
「廿八日。晴。屠蘇献上。」屠蘇を上《たてまつ》る家例は未だ廃せられずにゐる。
 此年棠軒三十六、妻柏三十五、子徳十一、女長十六、良十四、磐安二十一、平三郎九つ、孫祐七つ、姉国二十六、安十八、柏軒の妾春四十五であつた。

     その三百四十八

 明治三年は蘭軒歿後第四十一年である。棠軒は歳を福山に迎へた。藩主阿部正桓は四代前の不争斎正寧の病を瞻《み》むがために、東京に淹留してゐた。「正月元日。晴。夕微雨。御留守中に付、御祝儀御帳罷出。」
「二日。晴。江木老人、洞谷、養玄来飲。」江木鰐水は既に六十一歳になつてゐた。
「十日。晴。」来客四人中に「兵治《ひやうぢ》」がある。己巳席順一本に「真野兵治」がある。竹陶兵助が改称したのではなからうか。
「十七日。晴。御上《おんかみ》東京より御帰藩被遊候に付、四半時平服に而出仕。松尾へ寄。同人御供に而帰著に付。」正桓と医官松尾|立造《りふざう》とが福山に還つたのである。
「廿三日。晴。月番|意篤《いとく》より通用。御隠居様御不快為御看病東京府出府被仰付。尤養竹交代、支度出来次第之旨。」河村意篤が正桓の命を伝へ、棠軒をして森枳園と交代して東京に赴き、正寧に侍せしむることとなつたのである。公私略に同文の記がある。
「廿七日。微雨。午後晴。」是日棠軒の往訪した七家の中に関藤がある。想ふに藤陰の病は既に愈《い》えてゐたのであらう。以下関藤氏との往反は故あるにあらざる限は復抄せぬこととする。
「廿九日。晴。明日乗船に付、御暇乞に出。」将に福山を発して東京に向はむとするのである。「お長三夜之御暇被下下宿。」わたくしは前に棠軒の女長は阿部家の奥に勤めてゐるらしいと云つたが、果してさうであつた。是日の記に来客二十一人の名があつて、中に「藤陰翁」がある。関藤氏の号は日録には始て此に見えてゐる。
「二月朔日。晴。出帆之処船都合に而延引。」
「三日。晴。お長|御広敷《おんひろしき》へ上る。」広敷は奥向、台所向を通じて称へた語である。三夜の暇は此に果てた。「明日愈乗船治定。」
「四日。晴。乗船の積に付、飯田に而相待。明日に延引に付、一先帰宅。」
「五日。晴。今夜|鞆喜《ともき》一六船へ乗船に治定。夜四半時出宅。八時頃乗組出帆。御貸人中間《おんかしびとちゆうげん》治三郎召連、両掛《りやうがけ》一荷、主従夜具持込。此夜|手城《てしろ》沖碇泊。」送つて埠頭に至つたものの名は省く。
「十日。晴。風。兵庫著、夜半|入津《にふしん》。」
「十六日。晴。午前米国紐育船著津。明日右船へ乗組出帆之事。船賃二人分洋銀二十枚、此代金札二十二両、外に三歩手数料。」洋銀相場並に船賃を知らむがために抄したのである。
「十七日。陰。午後雨。夕七時乗組。」
「十八日。晴。暁七時過神戸港出帆。」
「十九日。晴。午時横浜港へ著船。夕七時前小舟一艘借切、品海《ひんかい》迄乗船。夜九時前品川|石泉《いしせん》へ著、一宿す。」
「廿日。晴。朝五時石泉より乗船、永代橋迄、又同所より乗替、石原御屋敷へ四時過著船。森、三好在番部屋へ落着、御附御家従へ罷出。午後丸山邸へ御屈行、津山にて飲。」以上明治初年福山東京間の旅程を見るべきである。公私略は但発著を記して、途次の事を載せない。三好氏は通称東安、枳園と共に正寧に侍してゐたのである。津山氏の事は下《しも》に記す。

     その三百四十九

 上《かみ》に記するが如く、庚午二月二十日に棠軒は東京本所石原の阿部家別邸に著き、丸山本邸へ届けに往き、先づ津山氏を訪うた。津山氏は三年の後に棠軒の女長の嫁すべき家である。
 津山氏当時の主人を英琢《えいたく》と云ふ。戊辰席順に「表御医師無足、十二人扶持、津山英琢、二十九」と云つてある。庚午には三十一歳になつてゐた。棠軒より少《わか》きこと六歳である。棠軒が遠く福山より来て、先づ其家を訪うたのを見れば、恐らくは親しき友であらう。是が後に棠軒の女婿となるべき碧山《へきざん》である。
 碧山英琢の家には、当時七十四歳の老父|忠琢成器《ちゆうたくせいき》が猶堂にあつた。忠琢は本伊藤氏、寛政九年に上総国市原郡高根村に生れた。父を義勝《よしかつ》と云ふ。五十川※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《いかがはじんだう》の撰んだ墓誌に、「諱義勝第二子、幼孤、長来江戸、従樗園杉本翁学医、業成、嗣福山侯侍医津山氏、既而名声大起、累得俸廿五口」と云つてある。忠琢は福山の津山氏の養子となつたのである。其師杉本氏|樗園《ちよゑん》、名は良《りやう》、字《あざな》は仲温《ちゆうをん》、一|字《じ》は子敬《しけい》である。池田錦橋と親しく交り、その歿するに及んで墓表を撰み、廃嫡の子京水を憐んで交を渝《か》へなかつたのは即此人である。わたくしは後に安積艮斎《あさかごんさい》の樗園の平生を記したのを見た。樗園と艮斎とは、少時同く柔術を松宮|柳囿《りういう》に学び、昵《したし》むこと兄弟の如くであつた。艮斎は樗園の事を叙して、「君有膂力、技亦抜群、雖※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]顱依様、而髪五分、以示勇猛状、時或酔後夜行、途次往々顛※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]人以為快」と云つてゐる。後二人は相約して志を立て、節を折つて書を読んだのださうである。わたくしはこれを読んで、京水が否運に遭つた時、樗園の義侠に負ふ所のあつたことを想見する。又中根香亭の記する所を見るに、樗園は善く琴《きん》を鼓した。其伝統は僧心越、杉浦琴川、幸田|親益《しんえき》、宿谷空々《しゆくだにくう/\》、新楽閑叟《しんがくかんそう》、杉本樗園である。今樗園が碧山の父の師たるを言ふに当つて、聊《いさゝか》前記の及ばざる所を補つて置く。
 さて碧山の父忠琢を養つて子とした所謂「福山侯侍医津山氏」とは誰か。福田氏はその長子刀自に聞く所のものを書して、特にわたくしに寄せてくれた。津山宗伯、名は義篤《よしあつ》、初|厚伯《こうはく》と称した。宝暦五年の生である。幕府の医官山崎宗運に師事し、宗字を贈られて宗伯と改めたと云ふ。按ずるに宗運は宗円ではなからうか。明和武鑑に「寄合医師、二百俵、元誓願寺、山崎宗円」がある。宗伯は阿部|正倫《まさとも》に仕へて、三たび駕に随つて福山に赴いた。菅茶山とは親善であつたと云ふ。茶山より少《わか》きこと七歳、蘭軒の父|信階《のぶしな》より少きこと十一歳であつた。宗伯は相貌魁梧で、克《よ》く九十余歳の寿を保つたさうである。是が碧山の養祖父である。
 碧山の父忠琢は養父宗伯の後を承けて阿部家の侍医となつた。※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂が「歴事六公」と書してゐる。六公とは正精、正寧、正弘、正教、正方、正桓であらう。然らば忠琢は蚤《はや》く十五歳|許《きよ》にして正精に仕へたものと見える。正精の死は文化九年忠琢十六歳の時に於てしたからである。
 忠琢は帰山《かへりやま》氏を娶《めと》つて四子六女を挙げた。長男伊之助の生れたのは、文政九年忠琢三十歳の時である。伊之助、名は義淳《よしあつ》、後|義方《よしかた》と改めた。経を安積艮斎に学び、又筆札を善くし、章斎と号した。僧となつて越後国蒲原郡見附在小栗山村真言宗不動院に住し、明治二年二月十三日に父に先《さきだ》つて寂した。時に年四十四。棠軒の碧山を東京に訪うた前年である。是が碧山の長兄である。

     その三百五十

 わたくしは津山碧山の家世を略叙して、祖父宗伯義篤、父忠琢成器、長兄章斎義方の名を挙げた。章斎には安積艮斎の手批《しゆひ》を経た詩稿が家に蔵してある。わたくしは其詩を録せずに、中に見えてゐる応酬の人物を抄出する。先づ諸侯には柳川侯があつて、章斎は其如意亭に遊ぶこと数次であつた。柳川侯は立花|鑑寛《あきひろ》である。士人には小島成斎、岡西玄亭、皆川順庵、今川某、児島某、杉本望雲、岡田|徳夫《とくふ》、河添原泉《かはぞへげんせん》、中耕斎、玉置《たまき》季吉があり、僧侶には鳳誉、渓巌、綜雲がある。又師艮斎の家に往つて作つた詩、佐藤一斎の筆蹟の後に題した詩もある。
 章斎に次で生れた忠琢の次男宗琢は、十七歳にして早世した。碧山の仲兄である。
 次で天保十一年に碧山が生れた。小字《をさなな》は英三郎、中ごろ行三《かうざう》、後英琢と称した。忠琢四十四歳の時の子で、その生れた時章斎は十五歳であつた。宗琢は何歳であつたか不詳である。
 碧山は幼時句読を庄原文助に受けた。後経を安積艮斎、海保漁村に学び、説文を岡本况斎に学び、又筆札を小島成斎に学んだ。
 庚午二月二十日に三十七歳の棠軒が、七十四歳の忠琢と三十一歳の碧山とに会したことは既に云つた如くである。わたくしは此より棠軒日録を続抄する。
「廿一日。晴。大君初而拝診被仰付。」大君は不争斎正寧である。
「廿二日。晴。番入。以来隔日当番可相勤旨。養竹出府御免、支度出来次第帰藩被仰付。伊東大典医伺に罷出、初而面謁す。」枳園養竹は棠軒の来りしが故に福山に帰ることを許された。伊東大典医は冲斎玄樸であらう。名は淵《えん》、字《あざな》は伯寿、本|御厩《みうまや》氏、肥前の人である。蘭医方をジイボルドに受けた。幕府は安政五年に冲斎等を挙げ用ゐるに及んで、前《さき》に阿部正弘が老中たる時に下した禁令を廃したさうである。事は松尾香草の近世名医伝に見えてゐる。冲斎は庚午の年に七十一歳になつてゐた。
「廿三日。晴。風。養竹当分之内御差留被仰付。同人同道|団坂蕎店《だんはんけうてん》に而《て》飲《のむ》。」枳園は一旦福山に帰ることを許されたのに、又抑留せられた。団坂蕎店は団子坂の藪蕎麦である。
「五日。(三月。)雨。森同道狩谷へ行飲。当時弘前邸内屋敷住居なり。」狩谷矩之が当時既に本所横川邸に移つてゐたことが、此に由つて証せられる。
「十二日。陰。午後|微晴《すこしはる》。森氏御用相済近日帰藩可致旨被仰付。」
「十六日。微雨。森氏午後当邸を出立帰藩之事。」枳園が方纔《はうざん》江戸を発したのである。
「晦日《つごもり》。雨。御扶持受取、五人半扶持、米八斗二升五合、代金九両三分銭一貫八百九十三匁、雑用代金一分二朱。」此文と前日の「御内々月給金五両受取」と云ふ文とを合せ考へて、阿部家の棠軒に対する待遇を知るべきである。前日の文は特に抄せずに置いた。
「六日。(四月。)陰。静岡分家より書状到来、去月三日|井戸妙《ゐどたへ》女病死之旨申来。」蘭軒の女長の夫井戸応助に子勘一郎と女《むすめ》二人とがあつて、後者中姉は関根氏に嫁し、妹は徳安の許にゐたことが文久三年の徳安の親類書に見えてゐる。妙は此妹か。然らば当時徳安改磐安の一家は静岡に徙《うつ》つてゐたのであらう。是より先「駿州分家」の語は既に日録に見えてゐた。

     その三百五十一

 わたくしは棠軒日録を抄して既に庚午四月六日に至つてゐた。此より其稿を続ぐ。
「十五日。晴。今川橋大久保に行。」蘭軒の父|信階《のぶしな》の養母にして信政の妻であつた伊佐の生家、菓子商大久保|主水《もんど》は庚午の歳に猶店を今川橋に持続してゐて、棠軒は当時の主水と往来してゐたのである。是日棠軒は福山の家人の書を得た。書は「三月十九日出」であつた。福山の書
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