九人扶持、桑田恒庵改恒介、六十、」若くは其子、雄之介は「五十俵、市令、内田雄之介、四十五、」祐道は「医、横田祐道、」勘兵衛は「十八俵、渡辺勘兵衛、三十一、」東安は「十八人扶持、医、三好東安、四十九、」銑三郎は「五十俵、大森銑三郎、三十、」高山《たかやま》は「二百二十石、高山郷作、三十一、」孫太郎は「五十俵、三富孫太郎、二十八、」顕太郎は門人「町医師、柳井顕太郎、」安貞は「二十俵二人扶持、前田安貞、三十二、」成安は「十二石二人扶持、医、三好成安、二十三、」全八郎は「十四石三人扶持、御料理人頭、上原全八郎、五十七、」貞白は「十人扶持、御足四人扶持、補、石川貞白、五十九、」平蔵は「村片平蔵、二十七」であらう。此中疑ふべきものがあるが、煩を避けて細論しない。戊辰席順の年齢は一年を加へた。肩書の省文中にはわたくしが自ら解せずして、漫然抄写したものが二三ある。
 わたくしは最も注意すべき人物として、養竹立之、養真約之の森氏父子及岡西養玄を表出し、又伊沢分家に縁故最深き人物として、石川貞白及上原全八郎を指点し、此に賀客の記を終へようとおもふ。飯田安石の棠軒養母の所生なることは、重て註することを須《もち》ゐぬであらう。
 棠軒は凱旋の月十四日に藩の「医官」を拝した。是は早く三月二十五日に、同班のものと共に命ぜられたが、出征間であつたので、此に至つて始て命を領したのである。六月十四日には、棠軒が偶《たま/\》目を病んでゐたので、森枳園が代つて登衙した。事は棠軒公私略と函楯軍行日録とに重見してゐる。只前者が目疾の事を言はぬだけである。
 按ずるに此任命は制度の変更より生じた形式に過ぎなかつたであらう。何故と云ふに、事実に於て医官たることは既に久しかつたからである。
 中一日を隔てて六月十六日に、棠軒は世禄の命を拝した。是も亦早く前年戊辰の冬に命ぜられたのである。「伊沢春安。其方儀是迄被下置候禄高之内五十石世禄に被仰付、其余は御足高に被仰付候。」公私略と軍行日録とが同文である。

     その三百四十五

 棠軒は北征より還つて後、日記の筆を絶たなかつた。軍行日録の余紙ある限はこれを用ゐて稿を継ぎ、その尽くるに及んで別に「棠軒日録」二巻を作つた。棠軒の日記は軍行日録より以下凡三巻ある。わたくしは此より後、材を棠軒公私略と棠軒日録とに取ることとする。
 上文は己巳六月十四日に棠軒が藩の医官を拝するに終つた。わたくしは先づ其後の日記中より目に留まつた件々を抄出する。
「廿七日。(六月。)晴。江木老人来。」是は鰐水が戦後初度の来訪であつたらしい。日記に見えてゐる森枳園父子、岡西養玄の往来の如きは此に抄せない。其往来殆虚日なきが故である。養玄は嘗て一たび柏《かえ》の所生の女《ぢよ》梅を娶《めと》つて、後にこれを出したものである。然るに伊沢岡西二家の人々は殆|細故《さいこ》意に介するに足らずとなすものの如くである。推するに是は人材を重んずる蘭軒の遺風に出づるものであつたらしい。養玄は後の岡寛斎である。
「廿九日。陰。去《さんぬる》十七日於東京府殿様福山藩知事|被為蒙仰候《おほせをかうむらせられそろ》に付、右|為御祝儀《ごしうぎとして》御帳可罷出之処、当病不参。」阿部|正桓《まさたけ》が藩主より藩知事に更任せられたのである。後七|夕《せき》の条に「当日御祝儀御帳出勤」と記してある。
 七月九日に棠軒は深津郡《ふかづごほり》吉津村に移住せむことを請うて允《ゆる》された。按ずるに棠軒は早く前年戊辰八月九日に吉津村に移つた。此に謂ふ「移住」は其地を永住の所とする意であらう。福山県には是より先甲子の歳に屋敷割の事があつたので、棠軒は同班と連署して下《しも》の願書を呈した。「元治元年甲子歳。屋敷拝領被仰付候様被仰出候に付、私共業柄之事故、町場近き屋敷拝領仕度奉内願候以上。五月廿九日。成田竜玄。伊沢春安。石川貞白。」棠軒は今此「拝領屋敷」として吉津村の地を乞ひ得たのであらう。日録に云く。「九日。(七月。)晴。午後驟雨。月番中に付、以養真内願差出如左。口上之覚。私儀御領分深津郡吉津村え在宅仕度奉内願候以上。七月九日。伊沢春安。右鼠半切相認中折半分上包。右即刻内願之通勝手次第被仰渡候旨、督事官吉左衛門殿、造酒之丞殿被申談候由、養真より申来る。」吉左衛門は三浦氏、三十歳。造酒之丞《みきのじよう》は渡辺氏、年齢不詳。
 同じ日(七月九日)の記に猶「岡より被招、洞谷同道行飲」の文があつてわたくしの目を惹いた。岡西養玄は蚤《はや》く此時岡氏に改めてゐたらしい。己巳席順に養玄の右傍《いうばう》に「待蔵」と註したのを見るに、啻《たゞ》に縦線を以て養玄の二字を抹してゐるのみならず、線は上《かみ》「西」字にも及んでゐる。按ずるに岡西養玄は己巳に一たび岡待蔵と称し、次で岡寛斎と改めたのである。洞谷は画師吉田氏で、上《かみ》にも見えてゐる。
「十一日。(七月。)晴。吉津へ行、家作大工に為積《つもらす》。飯島金五郎引請に而、銀札三貫目、月一歩二之利足を加へ、当暮迄借用、養竹証人也。」当時の銀相場金一両銀十八匁を以てすれば、三貫目は百六十六両余である。是が関西地方当時の家屋建築費である。しかしわたくしは此の如き計算に慣れぬから、此数字には誤なきを保し難い。

     その三百四十六

 棠軒日録己巳七月の条には、次に冢子《ちようし》平安の教育の事が見えてゐる。「十二日。(七月。)晴。馬場に行。平安誠之館稽古一件頼。」馬場保之助は此年の席順第五等席に載せてあつて、「教授」の肩書がある。平安は今の徳《めぐむ》さんで、当時十歳であつた。
 次に日録に始て意篤《いとく》と云ふものの来訪が書してある。「十五日。雨。意篤来。」按ずるに川村意得|重善《しげよし》の子、長を重監《しげあき》と云ひ、仲を新助退《しんすけたい》と云ひ、季を敬蔵重文《けいざうしげぶみ》と云ふ。重文の妹|天留《てる》の夫が意篤|重貞《しげさだ》、重貞の子が重固《しげかた》である。退、字《あざな》は進之《しんし》、悔堂と号す。霞亭北条譲の養嗣子である。蘭軒と霞亭との親善であつたことは上《かみ》に見えてゐる。今此文に由つて、蘭軒の養孫棠軒と霞亭の養子悔堂の妹婿《いもうとむこ》との交際が証せられるのである。意篤は己巳六十二歳であつた。以下意篤との往来は省く。
「十七日。陰《くもる》。普請取掛延引、明日より相始。」深津郡吉津村の構築である。
「十八日。陰。平安誠之館へ今日より出す。尤手跡学問共。」嫡子の就学である。
「廿三日。午後雨。高束《たかつか》に行。お長縁談の一件御奥御都合|承合《うけたまはりあはせ》。」棠軒の女長は当時十六歳であつた。此文より推せば、長は阿部家の奥に仕へてゐたのに、これを娶《めと》らむと欲するものがあつて、棠軒は長がために暇を乞はうとしてゐたのではなからうか。高束応助は己巳六十四歳であつた。阿部家奥向の事を管してゐたものか。
「廿五日。晴。馬屋原《まいばら》、上原、石川へ寄、吉津見廻り。」馬屋原玄益は席順に拠るに己巳三十八歳で、生年は天保三年である。蘭軒の詩を贈つた成美伯好《せいびはくかう》の子で、当時江戸にあつたものと推せられる。棠軒は其留守宅を訪うたのである。
「廿六日。雨。昨日箱館残り御人数帰著。岡田、斎藤、青木在其内。有祝行。家作料三貫目被成下、会計局より受取。」北征の時の総督岡田創以下が前日福山に還つたのである。吉津村構築の費用は阿部家より給せられて、棠軒は債を償ふことを得た。
「廿九日。晴。殿様於東京天杯御頂戴|被為蒙仰候《おほせをかうむらせられそろ》御祝儀五時より四時迄之内出仕御帳有之。」阿部|正桓《まさたけ》の朝恩を蒙つたのを賀するのである。
「九日。(八月。)晴。吉辰に付普請場へ引移。引越|御達《おんとゞけ》月番へ差出す。」吉津村の新居に移つたのである。手伝人中に飯田安石夫妻、森養真、岡待蔵等の名がある。公私略の文は日録と同じである。
「十四日。雨。殿様御帰藩被遊候に付、朝五半時揃総出仕、午刻御著。馬屋原、内野御供。」阿部正桓が福山に還つたのである。馬屋原の事は上《かみ》に註した。内田亦医官である。席順に「八人扶持、補、内田養三、三十六」と云つてある。
「十九日。晴。当直。当春より殿直《でんちよく》に不及、宅心得に相成。尤他出無用。当朝拝診可罷出之事。」棠軒勤仕の状況を見るべきである。
「廿一日。晴。石川大夫へ行。過日帰著に付。」藤陰成章《とういんせいしやう》であらう。己巳席順に「二百石、御足百石、上議員、関藤文兵衛、六十三」と云つてある。藤陰舎遺稿に拠るに、藤陰は此年正月東京に往つた。又東京を発する前|不争斎正寧《ふさうさいまさやす》が宴を本所石原邸に賜うた。家乗には「七月廿一日東京発、八月十八日福山著、廿四日執政を罷め、波平行安作刀一振を賜ふ」と云つてある。
「三日。(九月。)晴。渡辺省診。文兵衛殿へ寄一診。」棠軒は渡辺氏を往診する次《ついで》に、藤陰の病を診した。渡辺氏の事は是より先八月十日の条に、「渡辺母公不快之由申来、午後見舞行」と云つてある。その「母公」と云ふより見れば、病者は席順の「大監察、渡辺造酒丞、五十七」の母であらう。藤陰は東京より帰つた直後に病んだと見える。

     その三百四十七

 わたくしは棠軒日録己巳九月の条を続抄する。
「廿二日。(九月。)晴。三沢順民《みさはじゆんみん》病死之由申来。養玄同道|悔行《くやみにゆく》。」三沢は己巳席順に「十人扶持、准、三沢順民、廿九」と云つてある。その壮年にして歿したことを知るべきである。蘭軒と菅茶山との往復に見えた玄閑の後で、蘭医方に転じたと云ふは此人か。棠軒は寛斎と共に往いて弔した。
「廿五日。晴。去冬箱館戦争為御褒美、今般知事様へ永世六千石下賜趣、右為御祝儀御帳罷出候。」禄を阿部正桓に賜はつたのである。
「二日。(十月。)晴。文兵衛殿省診。」二たび関藤藤陰を往診したのである。
「十九日。徳児携手《とくじをたづさへて》城浦《しろうら》より釣舟遊行。」冢子《ちようし》平安の徳《めぐむ》と改称したことが始て此に見えてゐる。
「廿日。晴。関藤へ行。」此訪問は病を診せむがためなりや否やを知らない。関藤氏の家乗に拠れば、藤陰は戊辰十二月三日に本姓に復し、中岡才助に石川氏を譲つたのだと云ふ。才助は後の陸軍歩兵大尉石塚|敬儀《よしのり》である。原来棠軒日録には殆日ごとに「石川へ行」、「石川へ寄」等の文がある。是は石川貞白である。そして事の藤陰に係るものは、初より必ず石川大夫若くは文兵衛殿と書してあつた。わたくしは読んで此に至つて始て関藤の文字に逢著したのである。
「廿一日。晴。徳児携へ角力見物。陣幕土俵入並五人掛り有之。」陣幕久五郎が技を福山に演じたのである。
「廿二日。晴。」是日棠軒の訪問した六家の中に、又関藤がある。第四次の往診である。
「廿七日。晴。御隠居様|御不快被為入《ごふくわいにいらせられ》御容体書於御家従詰所拝見。養竹|為御見舞《おんみまひとして》東京へ早打に而被遣候旨。右に付同家へ行。」阿部|正寧《まさやす》が東京石原邸に於て病んだ。森枳園が問候のために東京へ急行した。棠軒はこれを聞いて家従詰所に往き、老侯の病況書を閲《けみ》し、後森氏を訪うたのである。下《しも》に枳園発程の記事のないのを見れば、枳園は此日に福山を発したものと見える。枳園は時に年六十四であつた。
「十三日。(十一月。)夜来雨。」棠軒の此日に訪うた三家の中に「真野」がある。己巳席順に「八十俵、真野兵助、五十」と云つてある。蘭軒に交つた竹亭頼恭《ちくていよりゆき》には孫、陶後頼寛《たうごよりひろ》には子で、名は頼直《よりなほ》、小字《をさなな》松三郎、竹陶と号した。今の幸作さんの父である。
「十八日。晴。三沢礼介家督被仰付。右|祝行飲《いはひにゆきのむ》。」礼介は順民《じゆんみん》の後を襲《つ》いだのであらう。
「廿三日。晴。大殿様為御看病東京へ御発駕被遊候に付、為御機嫌伺朝六時出勤。五半時過早打に而御出被遊候。立造《りふざう》御供。」正寧の病を瞻《
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