、時気|稍覚暖《やゝだんをおぼゆ》。夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと云ふ義であらう。
「二十七日。陰雨。」
「二十八日。晴。厚安子来一宿。」車駕の再び東京に入つた日である。
「二十九日。晴。斎木石川同道青森御薬用行。」
「四月朔日。陰。」
「二日。晴。午後急雨。」
「三日。晴。午後雨。」
「四日。晴。明五日|向地《むかひち》へ御進撃相成、御家兵隊三百人御繰出、松前口青木氏手厚安、厚沢辺《あつさはべ》口堀氏手亮碩、熊石村根陣岡田総督手文礼出張被仰付、拙者松軒其儘油川居残。」青木氏通称勘右衛門、後源蔵、二十三歳。堀氏通称兵左衛門、後精一、三十歳。岡田創は前に注してある。
「五日。晴。午後微雨。月給金受取。十二字揃、天富斎木石川出立す。尤《もつとも》青森迄。」
「六日。晴。午後雨。午刻許青森より進撃艦八艘出帆。」
「七日。八日。陰。」
「九日。晴。」此日江刺の戦があつた。下に註する。
「十日。陰。夜四時軍監より御談《おんはなし》左之通。昨九日向地より戦状申越、只今青森表より申来。九日八字官軍|音辺《おとべ》へ著。小戦有之、夫より江差之賊徒追撃、厚浅部《あつあさべ》口迄進軍、尤大炮三、玉薬二十四五箱分捕、賊徒一人生捕有之候趣。右に付残兵御都合次第早速御差出に相成も難計《はかりがたく》、兼而《かねて》手筈いたし置候様。」軍監、斎藤甚右衛門、三十八歳。中根香亭は九日の戦を下の如く叙してゐる。「四月九日。敵艦九隻。舳艫相銜至乙部。江差兵来邀戦。敵分兵攻江差取之。我兵聞之。敗入松前。敵又分兵二股木古内。土方歳三拒二股。大鳥圭介拒木古内。戦尤烈。」一戸の記に拠れば江刺の兵は三木軍司の率る所であつた。
「十一日。晴。」一戸の記に拠れば、是日伊庭八郎|秀頴《ひでさと》等は江刺を回復せむと欲して果さなかつた。香亭はかう云つてゐる。「先是秀頴率遊撃隊在松前。欲復江差。与諸隊合力。進撃敵根武田。散兵山野大破之。追北数里。敵焼茂草村而走。会本営之令至。二股木古内急矣。当退松前応機援之。乃収兵還松前。」秀頴は伊庭軍兵衛|秀業《ひでなり》の長子である。後に星亨を刺した想太郎は秀頴の末弟である。
「十二日。晴。藤田子中野村行一宿。」
「十三日。陰。夕雨。明日残兵御繰出相成可申、尤拙者居残、病人手厚可致旨、松軒出張被仰付。同人中野村より夜半帰寓。」一戸の記に拠れば、官軍と大鳥圭介の兵と再び幾古内《きこない》に戦つた日である。
「十四日。雨。朝五時残兵青森迄出張。」一戸の記に拠れば、是日名古屋、津軽、松前の諸藩兵が土方歳三、古屋作左衛門等の兵と戦つた。伊庭も亦兵を出した。
「十五日。晴。諸藩出張之兵大半青森より乗船渡海之事。御薬用に而青森行。」
「十六日。晴。」一戸の記に拠れば、武揚等は此日再び江刺を復せむとして清部村に至り、春日艦の砲撃を受けて退いた。
「十七日。晴。」官軍の松前を占領した日である。一戸の記にかう云つてある。「官軍海陸より並び進んで松前城に迫る。榎本子の兵退き、折戸に拠る。官軍の別隊山道より折戸の後方に出でて夾撃す。榎本子の兵敗る。官艦は松前を砲撃す。榎本軍弾丸尽き、却いて福島一渡尻内幾古内等を保有す。」(節録。)香亭の云ふを聞くに、官兵の折戸を迂回した時、岡田斧吉、本山小太郎が戦死した。「秀頴聞小太郎死。歎曰。余今而始失一臂矣。」
「十八日。晴。昨十七日昼九時松前落城之吉報有之候由。」
「十九日。陰。」香亭の云ふを聞くに、是日官軍が伊庭の福島の営を襲つた。伊庭は肩と腹とを傷けられた。「遠近要害。概為敵有。我水陸兵力漸蹙。所保五稜廓及辨天千代岡二砲※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]而已。」
「廿日。晴。」
「廿一日。微雨。」
「廿二日。雨。」
「廿三日。陰。」一戸の記に、「春日東二艦矢不来富川の陣を砲撃し、別に二股をも攻」むと云つてある。
「廿四日。晴。」
「廿五日。微雨。」一戸の記にかう云つてある。「東春日長陽陽春丁卯の五艦函館港に向ふ。榎本子等回天蟠竜千代田三艦を以て迎へ戦ふ。榎本子等の艦佯り退く。官艦追撃す。辨天砲台の弾丸雨注す。官艦退く。」(節録。)
「廿六日。陰雨。」武揚等の兵の矢不来《やふらい》に敗れて、五稜廓に退いた日である。
「廿七日。陰。朝より青森御薬用行。」
「廿八日。陰。」
「廿九日。晴。」
「五月朔日。晴。入梅。」
「二日。晴。」一戸の記に云く。「官軍七重浜及大野邑に進む。榎本の軍夜七重浜を襲ふ。官軍追分に退く。」(節録。)
「三日。陰。夕雨。」一戸の記に拠るに、武揚等の兵が官軍を大野に夜襲して克《か》たなかつた日である。
「四日。雨。病院新兵衛方より菊重《きくぢゆう》方へ再移転。」両軍艦隊の箱館港に戦つた日である。夜森本弘策が千代田を坐礁せしめた。
「五日。雨。」両軍艦隊の大森浜に戦ひ、官兵の大川村を占領した日である。
「六日。雨。去廿九日|木子内《きこない》及|二股《ふたまた》之賊敗走、官軍大野有川迄進撃相成候由。」
「七日。漸晴。」武揚等の艦隊中蟠竜回天の二艦が機関を毀《そこな》つた。
「十一日。晴。午刻より中野村行。広江氏不快に付て也。一宿。途中津軽坂|聴子規《ほとゝぎすをきく》。」是日武揚等は遂に自ら諸艦を焚《や》いた。
「十二日。陰。夕微雨。朝飯後中野村出立。途中落馬、左脇打撲。午後帰寓。」是日官軍が五稜廓を砲撃した。香亭の文に曰く。「甲鉄艦発大※[#「石+駮」、第3水準1−89−16]。撃五稜廓。屋瓦尽振。将士多死。秀頴在蓐。毎聞砲声。欲起而仆。創滋劇。遂絶。年二十七。」
「十三日。晴。去十日より箱館府戦争有之、賊徒敗走、軍艦に而も戦争有之、是亦官軍大勝利。松軒子之書状|安野呂《あのろ》より来る。」
その三百四十三
棠軒従軍日記の己巳五月十三日後の文は下《しも》の如くである。
「十四日。朝|陰《くもる》。午後晴。昨日当藩医師芳賀玄仲来。御旗|向地《むかひち》へ御廻しに相成、江木軽部等近日渡海之事。」当藩は津軽である。旗を向地に廻すとは岡田総督の彼岸に航する謂《いひ》であらう。江木氏、繁太郎。軽部氏、半左衛門、四十五歳。
「十五日。陰。午後晴。御勝手方中野村引払、当所本陣へ転陣。」岡田|航赴《かうふ》の準備である。一戸の記に拠れば、是日辨天砲台の戌兵降り、官軍の将校田島敬蔵、中山良三相次いで武揚に降を勧めた。武揚はこれを斥《しりぞ》け中山に託して「万国海律全書」二巻を官軍に贈つた。兵卒の逃れ去るもの踵《くびす》を接した。
「十六日。晴。月給金二両受取。」一戸の記に拠れば、是日|来島《くるしま》頼三の隊が千代岡《ちよがをか》を攻撃し、大鳥圭介等退いて五稜廓に入つた。官軍の参謀黒田|清隆《きよたか》は海律全書を受けて、酒五樽を武揚に贈つた。
「十七日。朝陰。午後晴。風。今夜四時御旗向地へ御渡海之事。」一戸の記に拠れば、田島敬三は是日再び往いて武揚を説いた。武揚は遂に黒田了介、中山良三と千代岡に会見して開城を約した。
「十八日。陰。風。小雨。近日軽寒、稍与二月気候相似《やゝにぐわつのきこうとあひにたり》。」一戸の記に拠れば、武揚は是日松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介等と与に出でて降つた。前田|雅楽《うた》は兵二小隊を率《ひきゐ》て廓に入り、兵器軍糧の授受に任じた。砲二十門、銃千六百挺、米五百俵である。将卒の降るもの千余人であつた。武揚は天保七年八月二十五日に生れた。一戸が文久元年二十七歳にして和蘭に留学したと云ふを見れば、一年の違算がある。二十七歳は二十六歳の誤であらう。戊辰の年には武揚は三十三歳であつた。
「十九日。微雨。午後晴。廿日。廿一日。晴。向地敵軍|去《さんぬる》十七日愈降伏、箱館府御平治相成候に付、残御人数及輜重一切渡海可致旨。尤病人三人(秋月辰三、小山忠三郎及人夫富五郎)戦事手負大病院へ御預に相成。為纏《まとめのため》磯貫一郎、藤田松軒御差越しに相成候。」十七日は武揚等の開城を約した日である。小山忠三郎は周旋方である。其他は上《かみ》に注してある。
「廿二日。陰。夜微雨。早朝油川菊重方出立。青森辰巳屋へ一旦著、大病院へ三人之病者頼行。其後往吉屋藤右衛門へ落着。風波|悪敷《あしく》、船不出帆。」
「廿三日。晴。午後雨。午後八時青森港出帆、夜五時過箱館著船。」
「廿四日。微雨。朝上陸。大病院下宿和島屋某へ著。本藩兵隊東京府迄引揚可申旨。尤明朝十字乗船之事。斎藤勘兵衛、河野|乾二《けんじ》、生口拡《いくちひろめ》病者為纏居残被仰付。」斎藤勘兵衛、二十七歳。席順に「撃小長」の肩書がある。鷹撃隊小隊長の略ださうである。河野乾二「軍事方」の肩書がある。
「廿五日。晴。後微雨。朝十字英船アラビアン乗船。夕四字箱館港出帆。」
「廿六日。雨。廿七日。午後晴。廿八日。晴。夜十一字横浜港迄著船。無程出帆。」
「廿九日。晴。朝四時頃品川著船。鮫津川崎屋へ上陸。夫々分散。病院は脇本陣広島屋太兵衛へ落著。御上《おんかみ》当時御在府に而、一統へ御意有之並に為陣服料《ぢんふくれうとして》金三両|宛《づつ》被成下《なしくださる》。尤典式伊木市十郎御使者也。」席順には「典式伊木市左衛門、三十八」と云つてある。
「六月朔日。微雨。従天朝《てんてうより》一同へ御酒御肴被下置。午刻より長谷寺《ちやうこくじ》、祥雲寺参詣。」
「二日。雨。於丸山邸岡田総督始夫卒迄御酒御吸物被成下。於福山当二月紋次郎痘死之由。」棠軒は始て二子紋次郎の死を聞知したのである。紋次郎は二歳にして夭した。
「三日。四日。雨。五日。陰。夜又雨。大殿様より一同へ御酒御肴被成下。当所かまや川崎や両所に而開宴。」大殿は四代前の正寧《まさやす》である。
「六日。雨。七日。陰。夕雨。午後二字大坂艦乗組延引。」
「八日。雨。午後漸晴。朝五時過大坂艦乗組、十字品川浦出帆。岡田総督御用に而、堀副督修業被願、青木氏薄手負に付、斎木文礼御用有之逗留。」青木氏、勘右衛門。
「九日。晴。午後微雨。艦中。十日。晴。夕七時半過|鞆津《とものつ》着船上陸。善行寺《ぜんぎやうじ》一泊。」
「十一日。晴。朝五半時鞆津出立。水呑《みのみ》村昼食。安石、吟平迎。地引《ぢびき》より総隊行列午後八半時着。鉄御門前へ一等官御出迎。夫より御宮拝礼、神酒頂戴之上引取。」安石は飯田安石である。吟平は辛未の日録に見えてゐる榎本吟平か。
その三百四十四
棠軒は戊辰九月二十一日に福山を発して北征の軍に従ひ、己巳六月十一日に還つた。わたくしは当時これを郷里に迎へた人々を検して見ようとおもふ。先づ飯田安石が中途に出迎へたことは既に言つた。次に家に帰つた日に来り賀したものは、「元民、玄昌、玄高、養竹、養真、養玄、泰安、菊庵、立造、玄察、金左衛門、洞谷、理安、策、恒三、雄之介、祐道、勘兵衛、桑名屋、豊七等」と書してある。翌日の客中より重出者を除けば、「東安、銑三郎、高山、」「孫太郎、顕太郎、安貞」がある。其次の日の客に「成安、全八郎」、「貞白」、「平蔵」がある。
此中桑名屋、豊七の二人は、安石と倶に出迎へた吟平と同じく、出入商人若くは厠役《しえき》の類《たぐひ》であらう。今文書に就いて其他のものを挙げる。元民は「九人扶持、准、皆川元民、三十七、」玄昌は「八人扶持、准、成田玄昌、二十六、」玄高は門人「成田竜玄次男玄高、」養竹は「十人扶持、御足八人扶持、医、森養竹、六十四、」養真は「五十俵、森養真、三十五、」養玄は「十三人扶持、書教授試補、岡西養玄改待蔵、三十一、」泰安は「十人扶持、御足十人扶持、医、鼓泰安、五十九、」菊庵は「十人扶持、御足五人扶持、医、鼓菊庵、五十四、」立造《りふざう》は「十人扶持、御足三人扶持、執、松尾立造、三十九、」玄察は「十人扶持、御足三人扶持、補、谷本玄察、四十、」金左衛門は「百四十石八十俵、内、藤田金左衛門、三十五、」若くは「百三十石、御宮掛、大林金左衛門、四十七、」洞谷は「十三人扶持、吉田洞谷、四十二、」理安《りあん》は「八人扶持、准、村上理庵、四十三、」策《さく》は「九人扶持、御足三人扶持、准、市岡策、四十二、」恒三は「
前へ
次へ
全114ページ中105ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング