いた時と三たび京水を説く時との間に、図《はか》らずも京水の後裔と相見た。
わたくしの錦橋の死を記した文が新聞に連載せられてゐた頃の事である。当時品川に住んでゐて、町役場に出入《いでいり》する一知人がわたくしに書を寄せた。「高著伊沢蘭軒新聞にて拝読致居候処、痘科池田京水と申者の事蹟に御不審の箇条有之候と相見え候。然るに貴説に右京水の一子と相成居候全安の名、当町役場の書類中に有之候。但し此池田全安は現存者にして或は時代相違ならむかとも被存、若し同名異人なるときは、無用の穿鑿に可有之候へ共、兎も角も左に宿所姓名抄出、御一報申上候。」此書の末に「南品川猟師町三十九番地池田全安」と低書《ていしよ》してあつた。わたくしは此に書を裁した知人の名を公《おほやけ》にする必要を認めない。わたくしは永く其人がわたくしの研究上頗る重大なる資料を得る媒《なかだち》をなしたことを忘れぬであらう。
わたくしは直に池田全安と云ふ人を訪ふことに決意して、先づ書を贈つて先方の都合を問ひ合せた。然るに全安さんは書を以て答へずに、自らわたくしの家にたづねて来た。
その二百十九
一知人がわたくしに品川に池田
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