かつたかとおもふのである。そして此別居はやがて伊沢氏の「又分家」の成立となつたことであらう。
わたくしは此より曾能子《そのこ》刀自の記憶に本づいて、此年三月三日の事を語らうとおもふ。幼い柏《かえ》の初節句である。
榛軒の家には古くより持ち伝へた雛人形があつた。しかし志保は榛軒に請うて、別に新しきものを買ふこととした。さて柏軒と倶に内弟子某をしたがへて家を出た。
留守は柏軒の妻たかであつた。忽ち柏が痙攣を起した。恐くは腸胃の不調和等に因る痙攣であつただらう。たかは驚いて家内の人々を呼び集《つど》へ、治療看護に手を尽した。
柏が纔に常に復した時、志保等は還つた。たかは志保を玄関に出で迎へて、「あの、お留守にお柏さんが」と云ひさして泣き伏した。此女丈夫の心根にも優しい処はあつたものと見える。
「柏がどうかいたしましたか」と問うた志保は、心の裏《うち》に若しや死んだのではあるまいかと疑つて、甚だしく驚いた。そしてたかの語を継ぐを待つて、始て心を安んじたさうである。此事は後年志保が幾度となく柏に語つた。
新なる雛人形のためには、新なる雛棚があつらへられた。榛軒は大工に命じて幅二間、高さ
前へ
次へ
全1133ページ中682ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング