。「此方そばに置度と広島をぢよりせつかく申参候。」又広江氏に寄せた書には、語が杏坪に及んでゐない。余一より「書状参り」の下が、「来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候」と承《う》けてある。推するに聿庵よりは直接に、杏坪よりは間接に言つておこせたのであらう。
安藝へ率て行かれる二人の中の一人は、支峰復《しほうふく》になつたらしい。わたくしは支峰の事蹟を詳《つまびらか》にせぬが、幼時一たび安藝に往つてゐたさうである。聿庵の帰郷は少し遅れて夏に入つたらしい。梁川星巌の贐《はなむけ》の詩がある。「鵑啼催得発征車。留滞江城両歳余。曾擬承歓為徳逸。豈図泣血是皋魚。愁辺新樹客衣冷。望裏白雲親舎虚。行到琵琶湖水畔。知君弔影重欷歔。」詩は夷白庵集《いはくあんしふ》一に出でてゐる。
その二百十二
頼山陽歿後の里恵の操持《さうぢ》は久しきを経て渝《かは》らなかつた。後藤松陰撰の墓誌に、「君既寡、子皆幼、而持操屹然、凡事皆遵奉遺命、夙夜勤苦、教育二孤、終致其成立」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守|忠告《たゞのり》が里恵の「貞操奇特」を賞したこと
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