は、世の知る所である。是は里恵五十歳、復二十四歳、醇二十二歳の時であつた。
水西荘は後に人手に落ちて、春処《しゆんしよ》と云ふ画家がこれに居り、次で医師安藤精軒の出張所となつた。支峰復《しほうふく》は安藤に譲渡《ゆづりわたし》を請うたが聴かなかつた。此時安藤が梅田|雲浜《うんぴん》の門人であつたので、梅田の未亡人が其間に周旋した。以上の事は上野南城の話として森田思軒が記してゐる。此変遷の年月は不詳である。しかしわたくしは偶然水西荘が安藤の有に帰してゐた時の事を知つてゐる[#「知つてゐる」は底本では「知つつてゐる」]。わたくしの亡弟篤次郎の外舅《ぐわいきう》に長谷文《はせぶん》さんと云ふ人がある。此長谷氏は水西荘を安藤に借りて、これに居ること三年であつた。そして篤次郎の未亡人久子は水西荘に生れたさうである。是に由つて観れば明治丁丑前後には荘が猶安藤の手にあつた。其後のなりゆきは、わたくしは聞知しない。
此年天保三年には榛軒二十九歳、妻志保三十三歳、柏軒二十三歳、長十九歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十二歳になつた。
蘭軒歿後の第四年は天保四年である。榛軒の家には事の記すべきものが無い
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