未亡人としての最初の筆蹟であらう。此時に至るまで頼氏の通信は渾《すべ》て関五郎が辨じてゐたのである。
里恵の書中より見出すべき事実は未だ尽きない。わたくしは今少し下《しも》に解説を試みたい。
その二百十一
此年壬辰|閏《じゆん》十一月二十五日に頼山陽の未亡人里恵が広江秋水夫妻に寄せた書の中より、わたくしは尚|下《しも》の事を見出す。
山陽の歿後中陰の果の日までは、里恵は毫も家内の事を変更せずに、夫の位牌に仕へてゐた。さて五十日を過した後、遺言の履行に著手し、先づ二人の男児を人に託した。次で自ら簡牘《かんどく》をも作つた。しかし里恵が夫の位牌に仕ふることは猶旧に依つてゐた。「せめてと存、誠に大切に百箇日迄、ちゆういん中同やうにつとめ申候。日々かうぶつのしなをそなへ申候。」語は前に省《はぶ》いた中にある。
山陽は九月二十三日に歿した。さて中陰四十九日は十一月十二日に果て、翌十三日を以て五十日が過ぎ去つた。嗣子復が牧氏に徙《うつ》り、其弟醇が児玉氏にかよひ始めた日を、十四日とする所以《ゆゑん》である。次に若し上《かみ》に云つた如く、里恵の始て自ら裁した書が小野氏に寄する
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