に限られてゐる。然るに其中に見出さるる事実の多きことよ。
 山陽は九月二十三日未刻の比《ころ》に遺言をした。「水西荘の地は借地である。しかしそこに建ててある家は頼氏の所有である。里恵には費《つひえ》を節して此家に住み、専ら幼女陽の保育に任じてもらひたい。復醇の二男子は家にあつて安きに慣れしむべきでは無い。食費を給して人に託してもらひたい。里恵は老婢一人を役して、陽と与に水西荘に住み、二男児の長ずるを待ち、京都市中に移り住むが好い。」是が遺言の内容であつた。
 里恵は二子一女と倶に五十日の喪を過した。「五十日のあひ/\はか参二人つれにて、もふくにて参候。」わたくしは此辺の文を省いたが、「二人つれにて」は復醇の二子を挈《たづさ》へて往つたのである。わたくしは母子の「三人づれ」と解する。
 五十日の後、里恵は復を牧百峰に託した。そして醇をば児玉旗山の許に通学せしめた。是が十一月十四日に里恵が夫の遺言を履行した始である。旗山の家には五月以来新婦がゐた。百峰は復の寄寓した後九日にして妻《さい》小石氏を迎へた。
 閏十一月には陽が重い疱瘡を病んで僅に生きた。其直後に小野氏に寄せた書が、恐くは里恵の
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