あらう。
 日本政記の校訂者が二人以上あつて、或は同時に、或は相踵《あひつ》いでこれに従事したと云ふことも、考へられぬことは無い。是が疑の二つである。

     その二百九

 関五郎が石川成章ではなからうかとは、わたくしと雖も思つてゐる。石川は此年壬辰五月に頼山陽に従つて彦根に赴いた。そして又これに従つて京都に帰つた。是が山陽の最終の旅行であつた。石川は詩稿の末にかう云つてゐる。「既自彦根還。此稿乞正於山陽先生。会先生罹疾。不正一字而没。」次で山陽の歿した翌年癸巳の元旦にも、石川は水西荘にゐた。「元日水西荘賦呈先師霊前」と云ふ詩がある。是に由つて観れば、頼氏の送葬の時も、焼香の時も、記録上に関五郎の占めてゐる地位は、恰も是れ石川の当に占むべき地位である。
 然らばわたくしが関五郎と石川成章との同異の間に疑を挾むのは、或はスケプシスの過ぎたるものではなからうか。
 さりながら人が「石川成章は一に関氏五郎若くは石川氏関五郎と云つた」と云つて、万事解決せられてゐると以為《おも》ふのは、わたくしの肯《うけが》ひ難い所である。此|裏《うち》に新なる発表を待つて方纔《はうざん》に解決せらるべき
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