何等かの消息が包蔵せられてゐることは、わたくしの固く信ずる所である。わたくしは最後に敢て言つて置く。関五郎が三字の通称でないことだけは、恐くは殆ど動すべからざるものであらうと。
山陽の歿後京都の頼氏には、三十六歳の里恵、十歳の復《ふく》、八歳の醇《じゆん》、三歳の陽《やう》が遺つてゐた。諸山陽伝には児玉旗山、牧百峰、宮原節庵が江戸にある宗家の当主|聿庵元協《いつあんげんけふ》と、広島にある達堂鉉《たつだうげん》とに与へた書数通、関五郎が復に代つて小野氏に寄せた書数通、里恵が小野氏に寄せた書、里恵が安井氏に寄せた書、梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》が後藤松陰に与へた書等を引いて、当時の状況が記してある。しかしわたくしは里恵の広江夫妻に与へた書が前数者に較べて最重要であると信ずる。それゆゑ煩を厭はずして下《しも》に抄する。
「廿三日八つ比《ごろ》に、何かとあとの所もよくよく申、此方なくなり候ても、何もかはり候事はなく、とんと/\此儘にて、此所|地《ぢ》かりゆゑ、家は此方家ゆゑ、ほそ/″\に取つゞき、二人の子ども、京にて頼二けん立て候やう、夫《それ》をたのしみ(
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