唐の玄宗の開元四年に歿した。其碑は李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]《りよう》が文を撰み自ら書した。然るに李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]に両《ふたつ》の雲麾の碑がある。一は李思訓《りしくん》の碑にして一は此碑である。思訓と秀とは同姓同官である。此碑は良郷《りやうきやう》より宛平県に、宛平県より順天府に入つて、信国祠《しんこくし》の壁に甃《しう》せられてゐるさうである。其拓本の種類等はこれを審《つまびらか》にしない。
其二は蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子《ていし》を斥《しりぞ》けた事である。某《それがし》は蘭軒に請ふに、其子に医を教へむことを以てした。そして云つた。「生れつき虚弱な子でございます。武藝などははかばかしく出来さうもござりませぬ。お医者様になつて薬の事を心得てゐたら、自身のためにも便利だらうと存じます。」
蘭軒はこれを聞いて眉を蹙《しか》めた。「それは悪いお思附だ。医は司命の職と云つて、人の死生の繋る所だから、其任は重い。医の学ぶべき事は極て広大で、これを窮むるには人に超えた力量がなくてはならない。御子息が御病身なら、何か医者でない、外
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