は相伴をいたしました。」
蘭軒歿後十三年は天保壬寅である。榛軒の妻は当時継室志保になつてゐた。塩田楊庵は出羽国山形の七日町《なぬかまち》から、文政癸未に江戸に出て長泉寺に寓し、尋で蘭軒の門に入つた。当時の名は小林玄瑞であつた。猫を葬つた壬寅の歳には神田松坂町の流行医塩田|秀三《しうさん》の養子になつて、子|良三《りやうさん》をもまうけてゐた。年は既に三十六歳、榛軒より少《わか》きこと三歳であつた。楊庵は肥胖漢《ひはんかん》で、其大食は師友を驚かしたものである。渋江抽斎は楊庵の来る毎に、例《いつ》も三百文の切山椒を饗した。三百文の切山椒は飯櫃の蓋《ふた》に盛り上げる程あつたさうである。
その百九十二
伊沢分家の口碑は、次に蘭軒に潔癖があつたと伝へてゐる。
此|癖《へき》は既に引いた※[#「くさかんむり/姦」、7巻−374−下−1]斎《かんさい》詩集文政壬午の詩に就いて、其一端を窺ふことが出来る。「但於間事有遺恨。筅箒不能手掃園。」蘭軒は脚疾の猶軽微であつた時は、常に手に箒を把つて自ら園を掃《はら》つてゐた。僮僕をして掃はしむるに至つて、復《また》意の如くなること能はざ
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