るを憾んだのである。
わたくしは更に細《こまか》に詩集を検して、箒を僮僕の手に委ぬることが、蘭軒のために奈何《いか》に苦しかつたかを想見した。文化己巳は蘭軒の猶起行することを得た年である。当時の詩中に「掃庭」の一絶がある。「手提筅箒歩庭隅。無那春深易緑蕪。刈掃畏鏖花草去。頃来不輙付園奴。」
蘭軒は啻《たゞ》に庭園の潔《けつ》ならむを欲したのみではなかつた。口碑に拠るに又居室の潔ならむを欲した。そして決して奴婢をして居室を掃除せしめなかつた。毎日箒を手にして父の室に入るものは長子榛軒であつた。蘭軒は榛軒の性|慎密《しんみつ》にして、一事をも苟《いやしく》もせざるを知つて、これに掃除を委ねたのである。
偶《たま/\》榛軒が事あつて父の未だ起たざるに出で去ることがあると、蘭軒は甘んじて塵埃中に坐して、肯《あへ》て三子柏軒をして兄に代らしめなかつた。粗放なる柏軒をして案辺《あんへん》の物を飜攪《ほんかう》せしむるは、蘭軒の耐ふること能はざる所であつた。
蘭軒は又潔を好むがために、榛軒をして手を食饌の事に下さしむることがあつた。例之《たとへ》ば蘭軒は酒を飲むに、数《しば/\》青魚※[#「
前へ
次へ
全1133ページ中609ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング