その百九十
わたくしは上《かみ》に伊沢分家の口碑の伝ふる所に係る蘭軒歿時の事二条を挙げた。此より蘭軒平生の事にして口碑に存ずるものに言及しようとおもふ。
蘭軒は近視であつたさうである。そして蘭軒が一目《ひとつめ》小僧に遭つたと云ふ伝説がこれに伴つてゐる。事は未だ蹇《あしなへ》にならぬ前にあるから、文化癸酉三十七歳より前でなくてはならない。
伝説に曰く。或日蘭軒は一病者を往診して、日が暮れてから還つた。雨の夜であつた。若党が提灯を手にして先に立つて行つた。蒟蒻閻魔《こんにやくえんま》の堂に近い某街《ぼうかい》を過ぐる時、※[#「竹かんむり/嫋のつくり」、7巻−371−上−5]笠《たけのかはがさ》を被つた童子《わらべ》が一人|背後《うしろ》から走つて来て、蘭軒と並んで歩いた。
「小父さん。こはくはないかい。」遽《にはか》に童子が問うた。
蘭軒は答へなかつた。
童子は問を反覆した。
若党が童子を顧みて、一声叫んで傘と提灯とを投げ出した。
「どうしたのだ」と蘭軒が問うた。
「今お側にゐた小僧は額の正中《まんなか》に大い目が一つしかありませんでした。ああ、気味が悪い。まだ
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