「三冬無雪梅花早。一夜生春人意寛。卜得酔郷今歳富。尊余臘酒緑漫々。」語に毫も衰残の気象を認めない。蘭軒は、脚疾を除く外、年初に猶身体の康寧《かうねい》を保つてゐたかとおもはれる。
 二月二日に蘭軒の次男常三郎が歿した。幼《いとけな》くして明《めい》を失し、心身共に虚弱であつたさうである。常三郎は父に先《さきだ》つこと四十五日にして歿したのである。文化乙丑に生れて、二十五歳になつてゐた。
 五日に蘭軒の妻|益《ます》が歿した。其|病《やまひ》を知らない。曾て除夜に琴を奏して慰めたと云ふ盲児《まうじ》常三郎に遅るること僅に三日、夫に先つこと四十二日にして歿したのである。益は天明三年に飯田休庵の女《ぢよ》として生れ、年を享くること四十七歳であつた。法諡《はふし》を和楽院潤壌貞温《わらくゐんじゆんじやうていをん》大姉と云ふ。
 十五日に蘭軒は友を会して詩を賦した。推するに未だ致死の病に襲はれてゐなかつたやうである。集に存ずる所の三絶句の一は、亡妻を悼《いた》んで作つたものらしい。「二月十五日夜呼韻。風恬淡靄籠春園。遠巷誰家笑語喧。零尽梅花枝上月。把杯漫欲復芳魂。」
 三月十七日に蘭軒は歿した。
前へ 次へ
全1133ページ中595ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング