石台本が行はれた。
 我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院|実隆《さねたか》の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池《やしろりんち》の校刻した本は是を底本としてゐる。
 そこで狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定《ちようてい》に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。

     その百五十四

 わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下《しも》の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思
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