経を読むに孔伝を取らずして玄宗注を取つた。
わたくしは上《かみ》に伊沢の家で毎旦孝経を誦《じゆ》するを例としてゐたことを言つた。此例は蘭軒の父信階より始つた。そして信階は古文孝経を用ゐてゐた。その玄宗注を用ゐるに至つたのは、蘭軒が敢て改めたのである。「先大人隆升翁生存之日。毎旦読此経。終身不廃。或鈔数十本。遺贈俚人令蔵。以為鎮家之符。其言曰。人読此経。苟存於心。雖身不能行。不至陥悪道矣。其厭殃迎祥。何術加之。梁皇侃性至孝。日限誦此経廿遍。以擬観音経。抑有以哉。吾輩豈不遵奉耶。翁所読本。即用古文本。信恬自有私見。而従玄宗注。」
然らば此玄宗注とはいかなるものか。唐代の学者は古文孝経の偽撰たるを論じて、拠るべからざるものとしてゐたので、玄宗は自らこれを註するに至つたのである。事は開元十年六月にある。即ち我国大宝の学令に遅るること二十年余である。
次で天宝二年五月に至つて、玄宗は重て孝経を注し、四年九月に石に大学に刻せしめた。所謂|石台本《せきたいぼん》である。此|重注石刻《ちようちゆうせきこく》は初の開元注に遅るること更に二十年余である。
是に於て彼土に於ては初の開元注亡びて、後の
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