我顧茅茨」と云つてあるのは、初度の訪問を斥《さ》して言つたものであらう。
霞亭は暫く伊勢に留まつた。そして林崎文庫の公吏となつたらしい。山陽は「為勢林崎院長」と書し、凹巷の詩には「経過従此数、咫尺寓林崎」と云つてある。
その百四十五
北条霞亭は文化七年庚午三月六日に、伊賀の広岡文台の家を訪うて其死を聞いた。次年八年辛未二月二十一日には嵯峨の竹里《ちくり》の家が出来た。霞亭の林崎生活は此間にあつた筈である。即ち晩春より次年仲春に至る一年の間である。
然るに韓凹巷《かんあふこう》の詩の此間の事を叙するを見るに、少しく疑ふべき所がある。「経過従此数。咫尺寓林崎。(中略。)紅葉添秋興。翠嵐和晩炊。(中略。)中間又何楽。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。(中略。)朝尋西塔路。山靄帯軽※[#「雨かんむり/斯」、7巻−288−上−7]。下嶽過大原。奇縁遇浄尼。(中略。)采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聴黄※[#「麗+鳥」、第4水準2−94−49]。上舟航浪華。雨湿篷不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。」林崎生活の中間に洛師の遊が介《はさ》まつてゐて、それが春游であつた。遊び畢
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