北条子譲寓都下之日。一見即為知己。其後子譲浪遊四方。凡経八年南帰。先生数寄書慰問。率無虚月。今茲庚午三月子譲往訪先生。視履交其門。以為延客宴集。既通姓名。出迎者愀然云。先生罹疾奄逝。今已六日矣。子譲初聞為妄為夢。終乃悲而慟。蓋相別十有三年。訪之不遠二百里。欲一把臂吐其胸臆。而幽明無由再見。豈不悲乎。子譲此行本期前月。余因事泥之。子譲亦遷延不発。卒致此死別。遺憾其謂之何。」
以上引く所に従へば、霞亭南帰の時は略《ほゞ》推定することが出来るやうである。
霞亭は文化七年三十一歳にして的屋に帰つた。その家に到り著いたのは、春未だ闌《たけなは》ならざる頃であつただらう。郷を離れてより八年の後であつた。
次で霞亭は一たび凹巷を伊勢に訪ひ、留まること数日の後、医学の師広岡文台を伊賀国に訪うた。其日は三月六日で、文台は歿して已に六日であつた。別後十三年の事である。
霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨歎弥日、帰来過山口聯玉家、説其故」と云ひ、凹巷は「悵然帰来、過予告故」と云つてゐる。「故」とは文台が旧弟子に再会するに及ばずして歿したことを謂ふのである。後者の詩に、「訪
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