八年は、霞亭が嵯峨幽棲の後となる。別来の句は上に連ねて読まなくてはならない。即ち厳慈《げんじ》に別れてより八年である。
 此八年と云ふことは、凹巷が他所に於ても亦云つてゐる。霞亭と其医学の師広岡|文台《ぶんたい》とは、別後久しきを経て再会すべきであつたに、文台は期に先だつて歿した。凹巷の所謂「訪我顧茅茨」の日は、霞亭が此|恨事《こんじ》を閲《けみ》する直前と直後とにあつた。そして此事のあつたのは、霞亭が外にあること八年にして南帰した時であつたと云ふのである。

     その百四十四

 韓凹巷《かんあふこう》の記する所に拠るに、北条霞亭の南帰は、父適斎に別れてより後八年、其医学の師広岡|文台《ぶんたい》に別れてより後十三年であつた。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭は寛政九年に京に入つて、享和二年に京を去つたらしい。京にある間は毎歳《まいさい》帰省するを例としてゐて、享和二年にも亦父を見て後に遠遊の途に上《のぼ》つたのであらう。享和二年の後八年は文化七年である。
 霞亭は寛政九年に京に入つて、直に文台に従学した。霞亭は「居無幾、先生帰伊州、予亦
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