。これは嫡男|正粋《まさただ》が病を以て罷められ、次男が夭札《えうさつ》したからである。勤向覚書に下の文がある。「十一月十三日、寛三郎様御嫡子御願之通被為蒙仰候、依之為祝儀若殿様え組合目録を以御肴一種奉差上候。同月廿九日、悴良安、此度若殿様御目見被仰上候為御祝儀御家中一統へ御酒御吸物被成下候に付、右同様被成下候旨、大目付海塩忠左衛門殿御談被成候間、御酒御吸物頂戴仕候。同年十二月朔日、若殿様御目見被仰上候為御祝儀、殿様若殿様に組合目録を以御肴一種宛奉差上候。」
 菅氏では此年茶山が七十四歳になつてゐた。詩集を閲《けみ》するに、茶山は春の半に北条霞亭の志摩に帰省するを送つてゐる。これは東役《とうえき》の前に故郷に還つて、別を親戚に告げたのであらう。同日|偶《たま/\》山県貞三と云ふものは平戸に、僧|玉産《ぎよくさん》と云ふものは近江に往つたので、祖筵の詩に「花前一日一尊酒、春半三人三処行」の句がある。又茶山集中の五律に「蛇年今夜尽、鶴髪幾齢存」の句のあつたのが、此年の暮である。
 頼氏では山陽が此年木屋町の居を営んだ。「吾儂怕折看山福。翻把琴書移入城。」
 小島氏では此年|尚質《なほかた》
前へ 次へ
全1133ページ中413ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング