《あさがほ》及|瞿麦《なでしこ》である。わたくしの嘗て引いた蘭の詩二首の一は此七種の詩中より取つたものである。
真野冬旭は或日向島の百花園に遊んで詩を賦し、これを蘭軒に示した。蘭軒の「次韻真野冬旭題墨田川百花園詩」の作はかうである。「久無病脚訪江干。勝事索然奈老残。何料花園四時富。佳詩写得与余看。」当時百花園は尚開発者|菊塢《きくう》の時代であつた。菊塢は北平《きたへい》と呼ばれて陸奥国の産《うまれ》であつた。人に道号を求めて帰空《きくう》と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。
冬が来てからは、只「冬至前一日余語君天錫宅集」の七絶一首が集に見えてゐる。此日余語の家には、瓶《へい》に梅菊《ばいきく》が插してあつたので、それが蘭軒の詩に入つた。歳晩に近づいては、詩集は事を紀せずして、勤向覚書が僅に例年の医術申合会頭の賞を得たことを伝へてゐる。歳晩の詩は此年も蘭軒集中に見えない。
阿部家では此年三男寛三郎|正寧《まさやす》が正精《まさきよ》の嗣子にせられて、将軍家斉に謁見した
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