山陽が寄寓したと云ふ無根の説を捏造したとは信ぜられない。且伊沢氏は又何を苦んでか此《かく》の如き説を憑空《ひようくう》構成しようぞ。
 徳《めぐむ》さんの言ふ所に拠れば、当時山陽が伊沢氏の家に留めた筆蹟が、近年に至るまで儲蔵せられてあつたさうである。惜むらくは伊沢氏は今これを失つた。
 わたくしは山陽が伊沢氏に寓したことを信ずる。そして下に云ふ如くに推測する。
 山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつただらう。山陽がその自ら云ふ如くに、又茶山の云ふ如くに、二洲の塾にゐたことは確である。しかし後に神辺《かんなべ》の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起して塾を去つたものと見える。去つて何処へ往つたか。恐くは伊沢に往き、狩谷に往つたであらう。伊沢氏の口碑に草鞋《わらぢ》を脱いだと云ふのは、必ずしも字の如くに読むべきではなからう。

     その十五

 山陽は尾藤二洲の塾に入つた後、能く自ら検束してはゐなかつたらしい。山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であつたと云ふ説は、森田思軒が
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