んでゐた。山陽が此二洲の官舎に解装して、聖堂に学ぶのは好都合であつたであらう。尾藤博士の塾にあつたとは、山陽の自ら云ふ所である。又茶山の詩題にも「頼久太郎、寓尾藤博士塾二年」と書してある。二年とは所謂《いはゆる》足掛の算法に従つたものである。さて山陽は寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた。此経過には何の疑の挾《さしはさ》みやうも無い。
しかし口碑などと云ふものは、固《もと》より軽《かろがろ》しく信ずべきでは無いが、さればとて又|妄《みだり》に疑ふべきでも無い。若し通途《つうづ》の説を以て動すべからざるものとなして、直《たゞち》に伊沢氏の伝ふる所を排し去つたなら、それは太早計《たいさうけい》ではなからうか。
伊沢氏でお曾能《その》さんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父|榛軒《しんけん》も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉|幾勢《きせ》は、お曾能さんが十七歳になつた嘉永四年に至るまで生存してゐた。此家庭に於て、曾て山陽が寄寓せぬのに、強て
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