で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。
 豊洲は中年にして与力の職を弟|直道《なほみち》に譲り、帷《ゐ》を下《くだ》し徒《と》に授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。所謂《いはゆる》郷南《きやうなん》の何処《いづく》なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。
 豊洲は南宮大湫《なんぐうたいしう》の門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社の末流《ばつりう》である。

     その十一

 わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯※[#「さんずい+回」、第3水準1−86−65]《そくわい》して叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスを插《さしはさ》むこととする。
 参河国加茂郡|挙母《ころも》に福尾
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