荘右衛門と云ふものがあつた。其妻奥平氏が一子曾七郎を生んだ。荘右衛門が尾張中納言|継友《つぐとも》に仕へて、芋生《いもふ》の竹腰志摩守の部下に属するに及んで、曾七郎は竹腰氏の家老中西曾兵衛の養子にせられた。中西氏は本氏《ほんし》秋元である。そこで中西曾七郎が元氏《げんし》、名は維寧、字《あざな》は文邦、淡淵と号すと云ふことになつた。淡淵が芋生にあつて徒に授けてゐた時、竹腰氏の家来井上|勝《しよう》の孤《みなしご》弥六が教を受けた。時に元文五年で、師が三十二歳、弟子《ていし》が十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮《なんぐう》氏と称し、名は岳《がく》、字は喬卿《けうけい》、号は大湫《たいしう》となつた。延享中に淡淵は年四十に垂《なんなん》として芋生から名古屋に遷つた。此時又一人の壮者《わかもの》が来て従学した。これは尾張国|平洲《ひらしま》村の豪士細井甚十郎の次男甚三郎であつた。甚三郎は偶《たま/\》大湫と生年を同じうしてゐて、当時二十に近かつた。遠祖が紀長谷雄《きのはせを》であつたと云ふので、紀氏、名は徳民、字は世馨《せいけい》、号は平洲とした。後に一種の性行を養ひ得て、所謂《いはゆ
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