歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後|幸子《さちこ》と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女《ぢよ》で、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。
天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度まで代替《だいがはり》があつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守|治高《はるたか》と名告《なの》り、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守|斉隆《なりたか》と云つた。
幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労して此《かく》の如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名は世代《せよ》である。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。
天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。法諡《はふし》を幽林院|岱翁良椿《たいをうりやうちん》居士と云ふ。長谷寺の先塋《せんえい》に葬られた。新しい分家には四十一歳
前へ
次へ
全1133ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング