が「或云高須人、或云竹鼻人」と記してゐる。伊藤東涯の門人である。享保元年生の維嶽が二十一歳になつた元文元年に、東涯は歿した。そこで維嶽は宇野明霞の門に入り、名を亮《りやう》、字を士明と改めた。既にして亮が三十歳になつた延享二年に、又明霞が歿した。亮は後名を欽※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《きんいう》、字を聖謨《せいぼ》と改めて自ら梅竜と号した。その武と云ふは祖先が武田氏であつたからである。梅竜は妙法院|堯恭《たかやす》法親王の侍読にせられた。
梅竜は仁斎学派より明霞の折衷学派に入り、同く明霞に学んだ赤松|国鸞《こくらん》が、「不唯典刑之存、其言之似夫子、使人感喜交併」と云つた如く、其師の感化を受くること太《はなは》だ深かつたものと見える。明霞の生涯妻妾を置かなかつた気象が、梅竜を経て美妻を斥《しりぞ》けた信階に伝へられたとも考へられよう。
梅竜は明和三年に五十一歳で歿した。信階は此時二十三歳で、中一年を隔てて伊沢氏の養子となつたのである。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵|信方《のぶかた》がゐた。休庵は信階の同出《どうし
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