先代信栄の歿した時、嫡子|信美《のぶよし》が幼《いとけな》かつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎に妻《めあは》するに信栄の妹|曾能《その》を以てしようとして、心私《こゝろひそか》にこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。偶《たま/\》識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれを娶《めと》らむことを勧めた。門次郎は容《かたち》を改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢の祀《まつり》を絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。
 惟《おも》ふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階は武于竜《ぶうりう》の門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或は武梅竜《ぶばいりう》ではなからうか。
 武梅竜初の名は篠田|維嶽《ゐがく》、美濃の人である。しかし其郷里の詳《つまびらか》なるを知らない。後藤松陰
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