。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。
 有信の妻は氏名を詳《つまびらか》にしない。法諡《はふし》は貞寿院|瓊林晃珠《けいりんくわうじゆ》禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。
 有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子が良椿《りやうちん》信政である。惟《おも》ふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡を大音柏樹《だいおんはくじゆ》居士と云ひ、母は※[#「女+(而/大)」、7巻−16−下−14]相寿桂《どんさうじゆけい》大姉と云ふ。
 有信は此《かく》の如く志を遂げて、能く一家の基《もとゐ》を成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財を糜《び》し、屡《しば/\》謀書謀判の科《とが》を犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党《さい
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