くしは爺に問うた。
「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、今日《こんにち》はお留守です。」
「さうかい。わたしは此墓に由縁《ゆかり》は無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞ綫香《せんかう》と華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」
爺が苔を掃つて香華《かうげ》を供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしに音信《いんしん》を通じてくれない。
その七
麻布の長谷寺《ちやうこくじ》に匿《かく》れてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信と名告《なの》つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた
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