は新発田の医官宮崎某に嫁した。按ずるに栄の嫁する所の田中氏は棠軒の生家である。是に由つて観れば、木挽町の柴田氏と云ひ、鳥取の田中氏と云ひ、実は皆棠軒の姻戚である。
十一月徴が父の称玄道を襲《つ》いだ。その受くる所の秩禄は二十五人扶持であつた。岡藩主久昭は夙《はや》く父※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]に所謂出入扶持十人扶持を給してゐたので、徴は弘化丁未に侍医を拝して受けた十五人扶持に加ふるに父の出入扶持を以てせられ、今の禄を得るに至つたのである。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の出入扶持には猶|参河《みかは》吉田の松平伊豆守|信古《のぶひさ》の給する五人扶持、上野《かうづけ》高崎の松平右京亮|輝聡《てるとし》の給する二人扶持、播磨姫路の酒井|雅楽頭忠顕《うたのかみたゞあき》の給する若干口があつた。
徴が箕裘《ききう》を継ぐに当つて、孫は出でて多峰《たみね》氏を冒した。時に年二十二で、脚疽は既に癒えてゐた。是は熱海の澡浴が奇功を奏したのである。
文久二年孫は日本橋南新右衛門町に開業した。是は当時幕府の十人衆たりし河村伝右衛門の出力に頼《よ》つたのだと云ふ。時に年二十五であつた。
既にして次年癸亥に至り、柏軒が京都の旅寓に病んだ。孫は報を得て星馳《せいち》入洛し、師の病牀に侍したのであつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六歳であつた。
松田氏の語る所に拠れば、松田氏より長ずること一歳の孫は、平生柏軒の最も愛する所で、嘗て女《ぢよ》国を以てこれに配せむとしたが、事に阻げられて果さず、国は遂に去つて狩谷矩之に適《ゆ》いたのだと云ふ。
孫は京都にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田氏が重患に罹つたことを聞いた。帰るに及んで、母の病は稍退いてゐた。次年元治紀元甲子四月五日に異母兄徴が歿し、尋《つい》で慶応紀元乙丑八月に母も亦歿した。徴は年を饗《う》くること僅に三十八であつた。
徴、字は子溌《しはつ》、棗軒、杏※[#「こざとへん+烏」、8巻−246−上−3]《きやうう》、月海、済斎の諸号があつた。小字《をさなな》は釣《てう》八、長じて玄策と称し、後玄道を襲いだ。妻三村氏に子道栄、女鉄があつたが、徴の歿した時には皆尚|幼《いとけな》かつた。是に於て孫は多峰氏を棄てゝ生家に復《かへ
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