》り、所謂順養子となつた。甲子二十七歳の時の事である。
その三百二十九
わたくしは柏軒門人の主なるものを列叙せむと欲して、先づ清川安策孫を挙げ、其家乗を抄して慶応紀元の歳に至つた。
慶応紀元に列侯の采地に就くものがあつて、孫の主君中川久昭も亦豊後竹田に赴いた。当時孫は母柴田氏の猶世に在る故を以て扈随することを得なかつた。孫はこれがために一旦藩籍を除かれた。
明治二年六月久昭の東京に移つた時、孫は復籍して三人扶持を受けた。尋《つい》で廃藩の日に至つて、禄十二石を給せられ、幾《いくばく》もなくこれを奉還した。
六年二月孫の家が火《や》け、悉く資財を失ひ、塩田真に救はれて僅に口を糊した。
九年五月孫|行矣《かうい》館の副長となつた。館は柳橋にあつた。古川精一の経営する所の病院で、其長は浅田|栗園《りつゑん》であつた。栗園、初の名は直民、字《あざな》は識二《しきじ》、後に名は惟常、字は識此《しきし》と改めた。祖先は源の頼光より出で、乙葉《おとは》氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に城を構へて浅田氏となつた。後石見守長時に至つて松本の西南栗林村に居り、東斎正喜《とうさいせいき》に至つて始て医を業とした。東斎の子を済庵惟諧《さいあんゐかい》と云ふ。文化十二年五月二十三日済庵の子に栗園惟常が生れた。栗園は少時京都に遊び、中西深斎の家に寓して東洞派の医学を修め、天保七年二十二歳にして江戸に開業し、文久元年四十七歳にして将軍家茂に謁し、慶応二年五十二歳にして家茂の侍医となつた。江戸にあつては初め本康《もとやす》宗円に識られ、宗円これを多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、小島宝素、喜多村|栲窓《かうさう》等に紹介した。住所は初め通三丁目であつたが、晩年牛込横寺町に移つた。此年栗園六十二歳、孫三十九歳であつた。
十年東京府が孫を医会の幹事に任じた。
十一年八月孫|博済《はくさい》病院の医員となつた。博済は両替町にあつた脚気病院の名で、院長は又栗園であつた。
十二年三月孫温知舎副都講となつた。舎は漢医方の学校であつた。
十四年八月孫栗園と倶に滋宮《しげのみや》尚薬《しやうやく》奉御となつた。滋宮は韶子《よしこ》内親王である。
十六年三月孫
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