+豈」、第3水準1−84−59]が窮時の逸事は、文政の初より天保の初に至る間の事であらう。
十年七月二十八日※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は四十八歳にして将軍|家慶《いへよし》に謁した。行歩不自由の故を以て城内に竹杖を用ゐることを許された。
十四年次男孫六歳にして長戸得斎の門に入つた。
弘化二年嫡男徴十九歳にして豊後岡の城主中川修理大夫|久昭《ひさあき》に仕へ、四年二十一歳にして侍医となつた。
嘉永元年孫十一歳にして榛軒の門に入つた。五年榛軒が歿して、孫は十五歳にして柏軒の門に転じた。按ずるに徴と孫とは皆榛門にゐたのに、門人録は徴を佚して、独り孫を載せてゐる。又按ずるに孫は小字《をさなな》を昌蔵と云ひ、後安策と改めたが、此改称は早く榛軒在世の時に於てせられた。魁軒さんの蔵幅に榛軒の柏軒に与へた書がある。「昨日御相談昌蔵命名之儀、愈安策に仕候。安全之策急に出所見え不申候。賈誼伝に者治安策と見え申候。先認指上申候。(中略。)桑軒とも御相談可被下候。(中略。)燈市後一日。」桑軒は未だ考へない。或は徴の号|棗軒《さうけん》を一に桑軒にも作つたものか。
その三百二十八
わたくしは柏軒門人清川安策孫の事を記して、清川氏の家乗を抄出し、嘉永五年に※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の次男たる孫が師榛軒を失つて、転じて柏軒の門に入つたと云つた。当時父※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は六十歳、嫡男にして岡藩に仕へた徴は二十六歳、次男孫は十五歳であつた。
安政三年には孫が右脚の骨疽《こつそ》に罹つて、起行することの出来ぬ身となつた。此より孫は戸を閉ぢて書を読むこと数年であつた。
四年徴が躋寿館に召されて医心方校刊の事に参与した。時に年三十一であつた。
六年七月九日※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]が六十八歳にして歿した。是より先※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は向島小梅村に隠れ棲んで吟詠を事としてゐた。現に梅村詩集一巻があつて家に蔵せられてゐる。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は再び娶つた。前妻宝生氏には子徴、女《むすめ》栄《えい》があつて、栄は鳥取の医官田中某に嫁した。継室柴田氏には息《むすこ》孫《そん》、女《むすめ》幹《みき》があつて、幹
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