、靄軒、梧陰等の号があつた。居る所に名けて誠求堂と云つた。本榎本氏、小字《をさなな》を武平と云つた。
 ※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の生父榎本玄昌も亦医を業とした。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は其次男として寛政四年に生れた。文化元年十三歳の時※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の兄|友春《いうしゆん》に汚行があつて、父玄昌はこれを恥ぢて自刃した。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は兄の許にあるを屑《いさぎよし》とせずして家を出で、経学の師嘉陵村尾源右衛門と云ふものに倚つた。村尾は※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]をして犬塚某の養子たらしめた。某の妻※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]を悪《にく》んで虐遇すること甚しかつた。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は犬塚氏を去り、鎌倉の寺院に寓し、写経して口を糊した。
 ※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は此時に至るまで家業を修めなかつたが、一日《あるひ》医とならむとする志を立て、始て蘭軒の門に入つた。
 蘭軒は※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]をして清川金馬の養子たらしめた。時に文化十三年、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は二十五歳にして昌蔵と改称し、後又玄策、玄道と称した。
 文政十年、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]三十六歳の時嫡男|徴《ちよう》が生れた。初の妻宝生氏の出である。此年※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は中風のために右半身不随になり、且一目失明した。按ずるに後年蘭軒の姉正宗院の寿宴のとき、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の伊沢氏に寄せた書は此病の事を知つた後、始て十分に会得することが出来るのである。
 天保五年徴が八歳になつたので、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]はこれをして佐藤一斎に従遊せしめた。九年徴は十二歳にして榛軒の門人となつた。是年又※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の次男孫が生れた。継室|柵子《さくこ》の出である。柵子、後道子と云ふ。柴田|芸庵《うんあん》の妹である。按ずるに渋江氏の伝ふる所の※[#「りっしんべん
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