も不相立、深奉恐入候間、右之段御憐察被下、可相成儀に御坐候得者、乗船御供御免被仰付、陸地に而|御先《おんさき》に罷越、兼而被仰出候日限に、出立上京為致度奉存候。此段|偏《ひとへ》に奉願候。二月日。多紀永春院。津軽良春院。」
 此草案には宛名は書してない。しかし医師は若年寄支配であつたから、若年寄用番に宛てゝ出す積であつたのだらう。
 歎願書はわたくしが松田氏の談を記するに当つて、其中間に插《さしはさ》んだものである。松田氏は乗船問題の談の末にかう云つた。「然るに柏軒先生の此心配は無用になつた。それは幕府の議が中途に変じて、舟を用ゐずに陸路を行くことになつたからである。今より回顧して見れば、奇異の感がするが、汽船に乗るは屈従である、寧《むしろ》地位を賭しても乗ることを辞するが好いと、先生も真面目に考へ、わたくし共も真面目にこれに賛同したのである。」
 柏軒が将軍に随つて江戸を発するに先《さきだ》つて、次に起つた一問題は、門人中誰が柏軒に随行すべきかと云ふ事であつた。
 是は柏軒が何人《なんぴと》を率《ゐ》て行かうとしたかの問題ではなくて、門人中主要なるものが師のために謀つて何人をして随従せしめようとしたかの問題である。わたくしは松田氏のこれに関して語る所を下《しも》に記さうとおもふ。

     その三百十五

 柏軒が癸亥の歳に将軍家茂に随つて上洛した時、高足弟子《かうそくていし》の間に誰を師に附けて京都へ遣らうかと云ふ問題が起つた。中にも松田氏は深く慮《おもんぱか》る所があつて、必ず志村玄叔を遣らうとおもつた。その語る所はかうである。
「わたくしは柏軒先生随行者の問題が起つた時、是非共志村玄叔を遣らうとおもつた。それは先生一身の安危に繋る事情より念《おも》ひ到つたのである。」
「前にも云つたやうに、将軍の一行には蘭方医と漢方医とが相半《あひなかば》してゐた。其人物の貫目より視ても、両者は輒《たやす》く軒輊《けんち》すべからざるものであつた。然るに老中の有力者たる水野和泉守|忠精《たゞきよ》は蘭方を尊崇してゐた。若し旅中に事があつて、蘭方医と漢方医とが見る所を異にすると、柏軒先生は自ら危殆《きたい》の地位に立つて其衝に当らなくてはならぬのであつた。」
「平生江戸にあつては、先生には学殖ある友人もあり、声望ある病家もある。縦《たと》ひ事端の生ずることがあつても、救援す
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