中辨兼左衛門権佐藤原豊房。」「上卿日野中納言、万延二年二月三日宣旨、法橋磐安、宜叙法眼、奉蔵人右中辨兼左衛門権佐藤原豊房。」按ずるに初叙《しよじよ》の法眼は例が無いので、先づ法橋に叙し、同日に又法眼に叙せられたのであらう。日野中納言は資宗《すけむね》卿、右中辨兼左衛門権佐豊房は清閑寺家である。
わたくしは柏軒に杖を許されたのは此月十七日であらうと謂《おも》ふ。柏軒の覚書は下《しも》の如くである。「二月十七日、真菜板橋瀬尾昌玄宅へ参り、森兄に会す。昌玄取扱にて、昨日御城内杖相用之願、不苦と御附札を以て被仰付候趣被申。森兄と同道、備前町有馬宗智宅へ参り、目付松平次郎兵衛宅を尋ぬ。田村小路なり。田村小路へ参る。十徳著用、昨夜清川より借りし袋杖を持たせ、玄関に通り、御礼申置く。帰宅、先考真迹を拝す。児信実、立賢、安石、良栄を携へ、長谷寺の墓を拝し、祥雲寺正宗院の墓を拝し、同寺良栄父平川養乙の墓を拝す。(前年江戸勤番中歿す。)酒半升を買ひ、掛茶屋にて飲む。氷川神社を拝す。信濃蕎麦索麪を先人先兄真迹前に供し、宴を開く。」
按ずるに目付松平次郎兵衛は安政六年より文久元年に至る武鑑に見えてゐる。「御目付衆、松平次郎兵衛、父次郎兵衛、千二百石、あたごの下、安政五午八月より、馬」と記してあるのである。瀬尾昌玄《せのをしやうげん》は「御目見医師、いゝだ丁まないたばし、瀬尾昌玄、」森は「御目見医師、こま込追分、森養竹、」並に辛酉の武鑑に見えてゐる。「信実」は鉄三郎の名であらう。立賢《りふけん》は榛軒門人録に「竹内立賢、津山」と記してある。安石は飯田安石、良栄は平川良栄である。平川は歴世略伝の柏軒門弟の部に載せてある。
その三百十一
此年文久辛酉に柏軒の第三子平三郎が生れた。夭折した棠助と鉄三郎との弟で、後宗家に養はれて黒田家に仕へた。生日は二月二十四日、母は側室佐藤氏春である。現存せる信平さんは此平三郎である。
棠軒は前年庚申に其主阿部正教に扈随して福山に至り、淹留して夏の初に及んだ。既にして正教は重患に罹り、棠軒は其病状を将軍徳川家茂に報ぜむがために江戸に遣さるることとなつた。四月二十一日に命を受け、翌二十二日に福山を発したのである。
棠軒公私略に此事を記してかう云つてある。「四月廿一日於福山在番御免被仰付。但当時君上御不例、大君殊之外御案じ被遊候に付、御容体申上
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