。頼氏では三樹三郎醇《みきさぶらうじゆん》が前年攘夷を策して幕吏の逮《およ》ぶ所となり、此年江戸に斬せられた。「身臨湯※[#「金+護のつくり」、第3水準1−93−41]家無信。夢破鯨濤剣有声。」
 此年棠軒二十六、妻柏二十五、子棠助一つ、女長六つ、良四つ、全安の女梅十、柏軒五十、子鉄三郎十一、女洲十九、国十六、安八つ、琴五つ、妾春三十五、榛軒未亡人志保六十であつた。

     その三百十

 万延元年は蘭軒歿後第三十一年である。二月二十一日に柏軒が奥医師に陞《のぼ》つた。わたくしは偶《たま/\》此年庚申の正月に出た武鑑と三月に出た武鑑とを蔵してゐる。彼には猶「奥詰御医師、三十人扶持、中橋埋地、伊沢磐安」と載せ、此には既に「奥御医師(二百俵高、御役料二百俵)三十人扶持、お玉が池、伊沢磐安」と載せてある。前者は誤つて旧宅を記したものであらう。
 五月九日に棠軒は阿部|正教《まさのり》に扈随して福山に赴くことを命ぜられ、八月五日に江戸を発した。棠軒公私略に「五月九日御帰城御供在番被仰付、八月五日御発駕、尤中山道御旅行」と云つてある。
 九月に棠軒は福山より鳥取に往つた。伯母《はくぼ》を訪うたのである。公私略にかう云つてある。「九月廿九日、於福山鳥取表伯母君(田中喜三母)対面願之通被仰付、但日数往来之外七日之御暇。」
 森枳園は此年「本草経薬和名攷」を草した。其稿本は井上頼国の旧蔵であつて、今無窮会に保管せられてゐる。末《すゑ》に下《しも》の識語がある。「万延元年庚申小春二十八夜三更燈下収筆、養竹翁五十四歳。」是は浜野氏の曾て寓目する所である。
 池田氏では此年初代全安の妻が歿したかとおもはれる。わたくしは過去帳五月十日の条にある「遊蝶院得夢定見大姉、池田全安妻、俗名蝶」を以て初代全安の妻となすのである。
 菅氏では此年七月三日に菅三惟繩《くわんさんゐじよう》が没した。継嗣は今の晋賢《しんけん》さんで、実は門田樸斎の第四子である。
 此年棠軒二十七、妻柏二十六、子棠助二つ、女長七つ、良五つ、全安の女梅十一、柏軒五十一、子鉄三郎十二、女洲二十、国十七、安九つ、琴六つ、妾春三十六、榛軒未亡人志保六十一であつた。
 文久元年は蘭軒歿後第三十二年である。二月三日に柏軒が法眼に叙せられた。宣旨は現に良子刀自の許にある。「上卿日野中納言、万延二年二月三日宣旨、磐安、宜叙法橋、奉蔵人右
前へ 次へ
全567ページ中472ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング