之為め、御参府前被差立候事。故に東著之上御謁には、今度江戸表御用有之、御参府前被差立云云被仰渡。道中下路も旅行被仰付、御手当も在番立帰之振と同じからず。同二十二日、福山発足之事。」
 五月十五日に棠軒は江戸に着いた。尋《つい》で二十二日に正教の室溝口氏の命を受け、正教の駕を川崎駅に迎へた。
 公私略にかう云つてある。「五月十五日、帰著。同月二十二日、殿様御参府之節、御容態為伺、川崎宿迄被差立候様、御前様より被仰付候旨、治左衛門殿被仰渡。」
 二十七日に正教は二十三歳にして世を去つた。法諡《はふし》して恭徳院と云ふ。室は新発田《しばた》藩主溝口主膳正|直溥《なほひろ》の女《ぢよ》で、子は無かつた。棠軒は遺物「黒絽御羽織」並金帛を賜つた。
 以上は表向の記載である。按ずるに正教の死は棠軒の福山を発する前にあつて、家臣は遺骸を護つて入府したのではなからうか。
 中二月を隔てて、八月に養嗣子|※[#「金+帝」、第4水準2−91−16]次郎《ていじらう》が家督相続をした。即|主計頭正方《かぞへのかみまさかた》である。関藤々陰《せきとう/\いん》が「十四歳襲封」と云つてゐる。正方は伊予守正寧庶出の第三子で正教の弟である。十五日に棠軒等に金を賜つた。「御相続御礼被仰上候に付為御祝」云々と記してある。
 此年多紀宗家では棠辺《たうへん》が和宮の東下を迎へまつらむがために京都に往つた。浅田|栗園《りつゑん》のこれを送つた詩がある。「家世医風誰復争。欽君盛選入京城。一堂秋気群蠅退。万里晴天独鶴横。丹吐祥雲護仙蹕。筆駆妖霧対朝纓。此回知続先人績。揚得日東扁鵲名。」
 此年石塚|豊芥子《ほうかいし》が六十三歳で歿した。豊芥子の行状は略《ほゞ》渋江抽斎伝に見えてゐる。
 此年棠軒二十八、妻柏二十七、子棠助三つ、女長八つ、良六つ、全安の女梅十二、柏軒五十二、子鉄三郎十三、平三郎一つ、女洲二十一、国十八、安十、琴七つ、妾春三十七、榛軒未亡人志保六十二であつた。
 文久二年は蘭軒歿後第三十三年である。「五月廿三日暁卯刻、女子出生、名乃夫」と、棠軒公私略に見えてゐる。
 七月四日に柏軒の長女洲が二十二歳で麻疹に罹つて歿した。洲は身の丈低く、容貌醜く、其賦性も遅鈍であつたので、此時に至るまで名を問ふものもなかつたのである。
 洲の歿した時は、此年壬戌の麻疹流行が猖獗を極めてゐて、お玉が池の家にも健《す
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